2021年5月5日水曜日

【コラム】文化芸術を都市に取り戻すために 清水雅人(2013.11.29掲載)

 インターネット映像で見たある学者の話が耳に残った。そろそろ考え方のフェーズを国家から都市に戻すべきなのではないかと。曰く、国は大きすぎて何かと実感を持つことが難しい。例えば、政治においては、政府が自分たちの声を代弁しているという感覚を持つにはあまりにも遠く、国民は政府に対して文句を言うか無関心にならざるを得ない。例えば、流通においては、生産者と消費者はお互い顔が見えにくい(地産地消運動はそれに抗う1つの方法だろう)。しかし、そもそも近代国家とは、数百年前に生み出された1つのシステムに過ぎない。現在でも欧米諸国では都市が自治性を持っている場合も多く、たった200年前の日本においても、人々がイメージする国は藩であり、自分達が日本人だという意識はなかった。

 他方、こんな議論もある。我々が生活する中で、匿名性が保てる人口の範囲は20万~30万人ではないかと。下世話な例で申し訳ないが、その数を割ってくると、密会というのが成立しなくなるらしい。秘密のデートも誰か知っている人に見られてしまう可能性があるからだ。これは、裏を返せば、顔の見える自治が可能な人口範囲であるとも言える。

 なぜ、このような話が耳に残ったかと言えば、これは文化芸術に関しても同様だと思えたからである。

 文化芸術というと、漠然としていてわかりにくいので、乱暴ながら映画や演劇、音楽などのエンターテイメントとして考えるとわかりやすいかもしれない。エンターテイメント産業の世界においても、日本では、東京の情報が一方通行的に全国に流通し、その逆はあまりにも細く、それは近代国家のシステムと同様なのだ。それは、東海圏における名古屋と他の都市との関係にも、そのまま当てはまる。

 我々が目指すべきは、文化芸術を国家から都市に取り戻すことなのではないか。国家というシステムの自明性を疑い、転倒させること。この豊田というほどよい人口を持った都市において、自立した顔の見える文化芸術空間を構築すること。そのためには、大きな価値転換が必要であり、まずは作り手があらゆる自明性を疑い、目覚めなければならない。

 全国に流通するものは素晴らしく、しないものは素晴らしくないのか?たくさん売れるものが善で、売れないものは悪ないのか?もちろん否である。それは今稼働しているシステムに合致しているかいないかの違いに過ぎない。

 システムを転換するのは並大抵のことではない。そのシステムの中にいたままでは不可能で、一旦システムの外に出なければならない。それには、まずは、自分の意識を少しずつ変えていき、それを少しずつ繋げていくしか道はない。

 この〈TAG〉が、その一翼を担えるようにならなければいけないと、私は考えている。


清水雅人 しみず・まさと
映像作家・プロデューサー。豊田を中心に活動する映画製作団体M.I.F.代表。映画製作の他にも、小坂本町一丁目映画祭運営、豊田ご当地アイドルStar☆Tプロデュ―スなどを手掛ける。

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