2021年5月27日木曜日

【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第7回「豊田の私的現在民俗学的歴史といま・これから」ゲスト:後藤真一氏(新三河タイムス)文字起こし(2017.1)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。再開をしたので、<TAG>第1期公開分で文字起こしができていなかった分の文字起こしを少しずつ進めています。
今回は2017年1月公開分の文字起こしです。大変遅くなりましたが、4年経っても興味の尽きないお話をしていただいてますので、改めてでも、初めてでも、動画視聴と合わせて文字起こしお楽しみください。
<TAG>ダイアローグ動画 ゲスト後藤真一氏 → https://youtu.be/2WJfK-ojTAA
<TAG>チャンネル登録もよろしくお願いします → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。

豊田の私的現在民俗学的歴史といま・これから
ゲスト/後藤真一氏(新三河タイムス)ホスト/石黒秀和 清水雅人 2017.1収録
ゲスト紹介
清水:みなさんこんにちは、<TAG>通信映像版1月号です。
略 ※冒頭ごあいさつ省略します
 <TAG>通信[映像版]6回目です、今日のゲストは、新三河タイムズの編集長 後藤真一さんです。

後藤:よろしくお願いします。

石黒:後藤さんもう編集長なんですか?

後藤:そうなんです。

清水:どれくらい前からですか?

後藤:もう5年くらいでしょうか。

清水:新三河タイムスも、もうかなり長いですよね。

後藤:豊田市制の頃に創刊してますから、70年近くになりますね。

清水:そんなに歴史があるんですか。いわゆる地域新聞ということでいいですよね。

後藤:そうですね、週刊で発行しています。

清水:豊田の市政から、その他豊田地域のことを掲載していて、会社も市役所のすぐそばにあって。後藤さんも、大学卒業されて入社されて、、、

後藤:もう22、3年経ちますね~。

清水:
今回後藤さんをゲストにと思った理由は、フェイスブックなど見させてもらっていると、もうありとあらゆる市内のイベントに顔を出しているというイメージがあって。
 私や、石黒さんも実は一緒だと思いますが、活動ではプロデューサー的な役割も多いけど、本当はクリエイターというかディレクターの方が元々の気質で、外に出て、いろんな人と会ったりとか、人付き合いしたい方ではないんですよね。

石黒:そうそう、私も本当は1人でコツコツ書いていられればいい方です。あまり人とは会いたくない(笑)。

清水:そういう意味で言うと、後藤さんは根っからのプロデューサー気質というか、いろんなところに顔を出されて、人脈を広げているというイメージがあるんです。新三河タイムスに入られて20数年ずっとそうやってこられていると思うんで、豊田をずっと見てきた歴史というか、豊田の動きみたいなことを、ざっくばらんにお聞きしたいと思って。それと、同世代なんですよね、我々の1つ下?

後藤:そうですね、昭和46年の3月生まれです。

石黒:そうですか、我々が44年生まれなので、学年は1つ下ってことですね。

清水:生まれはどの地区ですか?

後藤:四郷です。

清水:台中ですか、猿投台中学校ですね。井郷中学校が出来る前?

後藤:僕たちが卒業して井郷中学校ができました。

清水:私が石野中学校で、石黒さんが、、、

石黒:末野原が出来る前の上郷中学校です。

後藤:ちょうど高度成長期の人口がぐうーッと増えて学校も増えていく、そういう時期ですね。

清水:なので、今回は、ここ40年くらいの豊田の歴史というか、どんな感じだったっけ?っていう思い出話をしたいなって思ってね(笑)。テーマはもっともらしく「現代民俗学的歴史」と付けてますが、駅前こうだったよねとか、そういう話がしたいと思ってます。猿投台中学校も、生徒数が増えていく頃ですよね。

後藤:そうですね、僕らの頃で10組まであって、学年が1つ2つ下は13か14クラスありましたね。

清水:その頃がピークですね、いわゆる第二次ベビーブームの。上郷中学はどうでした?

石黒:10組はありましたね、11組あったかな、ちょっと定かじゃないけども、10か11組あったと思います。

清水:それだけ多いと知らない同級生もいますよね。

石黒:同じクラスなのにわからないって人もいるぐらい。

豊田の40年/昭和40年代~平成 豊田市駅前、トヨタ自動車、その他
清水:データも持ってきました、まず豊田市の人口推移です。これは調査時市域のデータですね、昭和40年代に町村合併してますが、その合併前の町村分は入ってない数字です。昭和44年の人口は17万5000人です。45年19万7000人、それで昭和59年に30万人都市になった。30万人都市になった時憶えてますか?

石黒:ああ、憶えてる、学校で何かやらされましたよね。

清水:昭和44年から50年の15年で人口がほぼ倍になってるんですね。それで、平成の大合併の時に41万2000人、この辺は緩やかに少しずつ増えた感じですね。今は42万3000人だそうです。
 昭和50年代っていうと、日本全国で言えばオイルショックもあって高度成長の伸びが緩くなっていく頃ですけど、豊田市で言うと昭和50年代にぐうーっと人口も増えていく真っ只中だった。私たちの小学校入学が昭和50年とか51年ですからね。
 もう一つ、トヨタ自動車の売上推移も持ってきました、1975年頃から1990年頃で売上が倍増しているんですね、90年がバブル崩壊です。これも覚えてますけど、95年ぐらいにトヨタの市場占有率が40%切ったとか言って大騒ぎしてましたよね、日産に負けるとか。でもその後プリウスを出すとか、奥田社長になったぐらいからまたちょっと盛り返してという。でも、生産台数はちょっとずつ減ってるんですね。

石黒:グラフで見るとそうなんだね。

後藤:これは国内生産?

清水:そうですね、国内生産ですね。そっか、この辺から海外に工場作ったりして生産拠点を移してることもありますね。

後藤:いわゆる日米貿易摩擦って言われて。日本製の車とか家電製品とか壊されてる映像がニュースで流れてました。それで、現地生産でトヨタもアメリカに工場を作ってという流れですね。

清水:子供の頃に、日本の製品は真似ばかりだみたいに言われて「そうなんだ、、、」って、経済は世界第2位になっても、なんとなく自慢できない気持ちがありましたよね。

石黒:トヨタ自動車に関しても、あまりポジティブなイメージがなかったですね。

後藤:正直なかったですね。

清水:車としても面白くないとかね。

石黒:周りがそういうふうに言っていたので、子供だからすごく感化されるというか。トヨタ自動車にだけは入りたくなって思ってましたね、父親はトヨタだったので、トヨタに育てられたわけですけど。

後藤:分かれるんですけどね、僕の同級生でも、トヨタに入る道に進む人もいれば、本当に反発して、トヨタだけは嫌だって違う道に進む人もいた。結構豊田人にとっての、進路の一つの分岐点みたいな、重要な部分だったと思いますね。これはそれぞれの親子関係もあったと思いますけどね。

清水:全体的に、日本的なものは良くないっていうアイディンティティもありましたよね。アメリカの方が絶対いいという、文化的に言っても。
 今やトヨタ自動車は国内では敵なしで、世界で1位2位を争う位置ですからね、トヨタももうダメかもって言ってた時代があったことが想像できないですよね。

石黒:そう、それで現金なもので、今はちょっと誇らしげなんですよね(笑)。

清水:そういう意味で言うと、社会人になった頃にプリウスが出たんですよ。あの時ちょっと感動したのを憶えています。ハイブリッド車っていうのを日本で作ったんだという、世界に先駆けで、これまでみたいな真似じゃないものを作ったという感覚があった。

石黒:トヨタの車ってやっぱりデザイン的にも、ちょっとダサイといういか、丈夫だけれど面白味がないみたいな。僕にとってトヨタの車を見直したのは、1年カナダに行っていた時に、向こうの人がトヨタの車はいいってみんな言うんですよ、壊れないってね。その壊れない良さ、要するに品質の良さっていう観点では、それまでは見てなくて、見た目だけで見てたので、品質の良さってのを、世界中の人が称賛してるんだっていうことを、海外に行って逆に知ったという感じでした。

清水:若い人たち、そうですね、30代以下ぐらいの人達って、生まれた頃から今まで、生活自体にほとんど変わりがない感覚だと思うんですけど、我々世代までは、まだ高度成長の名残を一応経験してるというか、コンビニのない時代を知ってる世代の一番下なのかなって。

石黒:田んぼや林森だったところが、どんどんどんどん開発されていくのを見てた世代ですね。

清水:僕は石野だったんで、そういう実感はあんまりないんですけど、お二人の周りはすざまじい開発があったんじゃ、、、

石黒:うちは豊栄町だったので、家の周りがどんどん変わっていって、大林の辺りなんかも何もなかったんですが、住宅街になってね。

清水:四郷はどうだったですか?

後藤:四郷はそれこそ最近ですね、四郷駅の周りが区画整理されて、やまのぶとか商業施設もできて。

石黒:最近そういう開発の仕方しますね、岡崎でもそうなんですが、スーパーがあって、薬局があって、カフェがあって、それで大体なぜか回転ずしがあって(笑)、その周りを住宅が囲うみたいな、○○タウンみたいな。

清水:豊田市の北部、猿投地区の方って人口は多いけど、梅坪以北商業施設はほとんどなかったですからね、ああいう大きな開発ってもう最後かもしれないですね。
 豊田市駅前で言うと、子どもの頃は、ユニーとかサントクヤとかがあったんですが、石黒さんはあんまり豊田市駅の方には来てないですか。

石黒:そうですね、僕はそうでもなかったんけど、友達は岡崎に行ってましたね、岡多線に乗ってね。

後藤 清水:岡多線!

石黒:上郷とか、東部の人は岡崎に買い物に行っていたと思いますね。

清水:高岡の人は、刈谷とか、豊田より断然都会でしたもんね。

石黒:豊田市駅前に行くのは、映画を観に行くとか、小さい時に親に連れられて長崎屋に行くくらいだったかな。

後藤:僕は豊田市駅前はよく行きました、トヨビルとか、アピタとか。

清水:アピタができたのが中学生くらいですか、ユニーから変わって。

後藤:僕はサントクヤは記憶にないですね。

清水:豊田市駅側から見ると左側に長崎屋があって、右側にユニーがあって、あれ?サントクヤがユニーになったんだったかな、、、。

石黒:それは僕も記憶にないなぁ、それはどういうお店?

清水:ユニーなんかと同じ感じのデパートっていうか、そういうお店だったと思います。
※サントクヤで検索してみたところ、サントクヤとユニーは別で、並んで建っていたようです。ユニー、長崎屋は会社は現在も存在しますが、サントクヤの詳細は当時もその後の経緯もネット検索だけではわかりませんでした。
 それでユニーがアピタになった。駅前の交差点に本の原田屋さんがあって、そのこっちに市民センターってのがありました。

後藤:今の参合館のあたりですね、あと不二家があって、第一勧銀があって、、、。

清水:だから、高度成長期、昭和30年代末から40年代にワーッとその辺りが建って、それから豊田市駅の高架化があってですね。僕は高校生の時にそごうの工事をずっとしていた記憶があります。

後藤:僕が高校3年生の時にそごうができましたね、友達と「豊田にデパートができるよ」って。

清水:後藤さんは、高校はどこだったんですか?

後藤:北高です。

清水:ちょうど分かれましたね、私が西高で、石黒さんが南校ですから、北西南揃いました。四郷から北高だと自転車で通学ですか?

後藤:まだ豊田大橋もないので、高橋を渡ってですね。

清水:平成記念橋もないですもんね。

石黒:後藤さんは北高の何期生になるんですか?

後藤:8期生です。

石黒:できたのは北高が一番早かったですね、僕は南高の6期生です。

清水:西、東、猿投農林は昔からあって、あの頃の新設校では、北ができて、南ができて、豊田高校ができての順番ですかね。

石黒:それで最後に豊野高校ができた。

清水:豊田市駅周辺で言うと、あづまやもまだ古くてね。

石黒:古いあづまやは憶えてる。

清水:内藤書店とかね。駅ビルがトヨビルでしたが、高架化でトヨタプラザができて。

後藤:トヨタプラザ、懐かしい響きですね。

清水:今も一応トヨタプラザじゃないですか?

後藤:そうですね。

清水:それでそごうができてですね。駅西はいわゆる駅裏で、裏って言うと怒られますけど。

後藤:僕怒られました、フェイスブック上で(笑)。

清水:でも当時は駅の西側はすぐ民家って感じでしたからね、吉田屋さんだけあったみたいな。

石黒:やきそばの吉田屋ね。

清水:そごうができて、逆に駅東のお客さんが減るって言われて、長崎屋がなくなって、長崎屋の跡地に何も入らなくて、おいでん横丁とかやってみたり、、、がちょうど社会人になった頃ですね。だから豊田市駅周辺でいうと、あの頃がなかなか厳しい時代だったのかなと思います。私は市役所に入ったんですが、あの辺りの飲み屋さんのどこに行っても、市役所の職員しかいないという状況だった。

石黒:そうなんですよね、あの頃の駅前の雰囲気にだけは戻したくないって、みんな口を揃えて言いますね。

清水:ちょうどバブルもはじけて、さっき言ったようにトヨタ自動車も苦戦してて、なかなか厳しい時期だったんですね。でもそこから、2000年代になると、飲み屋さんも増え始めて、コモスクエアも出来て、、、。

後藤:コモスクエアは今年で10年ですね、2007年にできた。

清水:
じゃあそのちょっと前ぐらいから、夜の賑わいが戻ってきたという印象ですね。それってどういう理由なんでしょう、再開発があって、会社も増えて、人も増えたってことですかね。

後藤:どうですかね~、基本的にトヨタ自動車は真面目な会社ですので、平日は飲まないですからね、週末や休みの日、金曜日の夜なんかに集中するので、今も相変わらず平日はなかなか厳しいところがあると思うんですけど。でもあの頃お店も急に増えましたね。

清水:結構お店が増えていって、こんなに増えて大丈夫かなって思ったくらいだけど、意外と閉店せずに増え続けてますから。映画作りを始めて、2005年か6年ぐらいに、日進にある名古屋学芸大学の映像の学科の学生と交流があって、学芸大の学生ってどこに飲みに行くの?って聞くと、だいたい3か所だと、近場だと藤が丘で、あとは豊田に来るか栄まで行くかだと。豊田が選択肢に入ってるんだって思いました。今でも土曜日なんかだと学生多いですね。

石黒:でも、それは飲み屋が増えたから学生も増えたということだよね。そもそも人が増えたから飲み屋が増えたのか、飲み屋が増えたから人が増えたのか、、、ただ、どう考えても、人が増えたという印象があんまりないんですよね。だけどそれだけの飲食店が進出したというのは、その理由が、いまいちわからないというか、思いつかないんですよね。

清水:市の担当者に言わせると、コモスクエアの上とか会社が結構入って昼間人口が増えてたからだって聞くんですが、、、。

後藤:でも、数は知れてますよね~。

清水:あとは、店が増え始めた当初に聞いたんですが、名古屋で何店舗か出したお店が、その後豊田に出店するみたいな流れもあると、豊田市駅周辺がいいっていうマーケティング的な流れもあったのかなとも思うんですが。

石黒:客単価が高いって話は聞きますね、数は名古屋に比べればそりゃ少ないけど、1人が落とす単価がとても高いので魅力的だっていう話を聞いたことあります。

清水:ちょっと洒落たお店もでき始めて、人もたくさん入ってという流れもあって、私たちなんかは、それこそ合コンで使うとか、職場の飲み会なんかで新しい店にどんどん行ってた覚えがありますね。

後藤:キヤノとか、メルカドとかね。

清水:そうそうそう、その辺ですね。

石黒:そうだね、ちょっとおしゃれなね。

清水:僕が市役所入った頃にはそんなお店なかったですし、いわゆるチェーンの居酒屋もそんななかったですね、村さ来があったくらい。

石黒:さっきの人口推移を考えると、いわゆる我々世代がお金を落とす世代になってきたってこともあるかもしれませんね。

清水:なるほどね、それはあったかもしれませんね。

豊田の変化 地の人と外から来た人の交わり
清水:あんまり豊田市駅前の思い出ばかりでもアレなので(笑)、後藤さん、ずっと取材で豊田の街に移り変わり、駅前だけじゃなくて、豊田全体の街の変化とか、振り返ってみてどうですか?いわゆるイベントなんかは昔はそんなになかったと思いますが、地域振興とか言われ出したのもその頃からだと思うんですけど、ここ20年30年の、豊田を見てきた中で感じる変化ってありますか。

後藤:僕が最初に会社に入った頃に、豊田は文化不毛の地だってやたら言われましたね。

石黒:今だに言われますね。

後藤:どういう基準で文化不毛の地って言うのかよくわからないんですが、当時は加藤市長で、緑の都市で、文化ゾーン構想もあって。舞台・演劇の方で岡田さんと石場さんがいて、伝統的なお祭りなんかもありましたし、日本舞踊も盛んだったり、クラシックもセンチュリーだとかもあって、、、色々文化もあったと思うけど、トヨタ自動車があるのに、その割にってことなのか、、、ちょっとわからないところがあったんですけどね。

石黒:やっぱり昔のイメージで言えば、特に岡崎とか碧海の人からみれば豊田は田舎で、嫁に出したくないってね(笑)、そんなことも言われたっていいますから、だから文化的にも遅れているというイメージ、それは戦中戦前の話かもしれないけども、それを引きずってたところはあるのかもしれませんね。

清水:東海道沿線に比べると山間部で、かいこさん、蚕養をやってる町っていう印象ですよね、当時は。

後藤:まあ、何もないからトヨタ自動車が進出してきたわけですからね。

清水:僕は豊田でも田舎なのでそんなに実感はなかったんですけど、学校でも全国から来てるっていう印象はありましたか?

後藤:ありましたね、お父さんの出身地を聞くと、九州とか、山陰とか、東北とか、この辺りでは珍しい苗字もいましたね。

石黒:
それは、僕も中学校の時はやっぱり感じましたね。自分もそうだったんでね、親は九州だったので。もうクラスメイトのほとんどがそうでしたよ、半分どころじゃないと思う。だから、いつの頃からか自分たちのことを二世って言って、要するに豊田生まれ豊田育ちなんだけど、親は違うという。そういうのは、ここにいると当たり前なんだけども、実はこの辺りならではだったというのは、中学の時はまだ気づいてない。

清水:ちょっとまとめると、高度成長期からバブル崩壊まであって、文化不毛の地って言われたりしてたけど、2000年あたりを境に、また豊田市駅周辺にお店も増えて人も増えてきてとか、石黒さんの演劇活動とか、私も映画に関する活動とかをやってきてるんですが、僕たちの上の世代が文化に関する活動をどうやっていたのかがあまり見えてなくて、繋がりみたいなのもあんまりなくて、ちょっと分断があると言うか、、、。

石黒:ちょうどこの前の土曜日に、そういった文化関係者の集まりがあって、それは旧の文化協会のメンバーが中心だったんですが、さっきの文化不毛の地の話でいくと、あの世代は、かなり幅広く、いろんな分野で文化活動をしてて、今でもそれはしてるわけです。文化協会だった頃は、むしろ今よりも活発にやってたんじゃないかと思うくらいなんですよね。ただ、あの人たちは豊田にずっといた人たちで、いわゆる我々のようなよそから来た層は入ってなかったんじゃないかと思うんですね、ちゃんと調べたわけではないですけど。

後藤:それは、そうかもしれませんね。

石黒:だから、我々の世代でようやく、まあ我々は豊田で生まれ育ってますので、もともとは地元人でない人たちが豊田の文化も担い始めた。ずっといる人とそうじゃない人たちの境目があるのかもって思うんです。
 僕が、市民創作劇場に関わったのが、1992年3年ぐらいから10年間くらいだったんですが、その時僕も20代でしたけど、集まってくるメンバーも僕と同世代、10代20代が多くて、多い時は70人80人いましたが、その中にね、結構な割合で九州だ北海道が鳥取だって子がいましたからね。それも、僕なんかは親は九州だけど自分は豊田育ちでしたが、同世代でも最近豊田に来たって人もいたし、親の代からずっと豊田って人もいて、そういった3種類の人が混じって一つのものを一緒に作り始めた世代なのかもしれないですね。

清水:うちの親を例に取ると、うちの親父も仕事以外でいろいろやってましたけど、コミュニティ会議ができた頃で、コミュニティ会議をどうやっていくんだとか、地区でソフトボール大会やろうとか、そういうことをしてました。だから当時はかなり地縁的なつながりでの活動が多かったイメージですけど、我々の世代になるとそういう地縁的なものから外れてきた世代なのかなとも思います。

後藤:文化分野ではそういう融合があったと思うんですが、でも、政治とか経済、経営者とか見てると、やっぱり根っからの地の人が多いんですよね。例えば、商工会議所に入ってる人とか、二代目も多いし、だから人口割合からすれば、全体としてはよそから来た人の方が多いんですが、中核を握っている、いわゆる経済界のボス的な人って地元の人が多いんですね。

石黒:外から来た人のほとんどが製造業だったので、ここで起業するとか、何かお店を出すっていう人、そういう発想そのものがなかったかもしれませんね、最近は増えてきてると思いますが。

後藤:そうですね、増えてますね。それで、起業してる人見るとね、やんちゃって人が多いですね(笑)。どちらかというと学歴があってという人は、自分の先を見ちゃうので、なかなかトライしないんですけど、やんちゃな人は、まずやってみるっていう人が多い感じがしますね。

清水:この前テレビ番組で観たんですが、豊田に限ったことではないんですが、高度成長期と今だと自営業者は半減してるんだそうです、高度成長期まではサラリーマンと自営業って半々くらいだったのが、現在では70、80%がサラリーマンになってる。これは、いわゆる町の○○屋さん、八百屋とか時計屋とかそういう個人店がどんどんなくなってるからなんですね。地方都市にとってそれがいいことなのか悪いことなのかわからないですが、、、。

石黒:だけどそうは言いつつね、最近の話だけど、女性、主婦の人のプチ起業が盛んだって聞くし、フェアトレードの店があったり、そういうソーシャルビジネス、そういった系統のものも出てき始めてる。夢農人、若手の農業の人達がいろんなチャレンジをしたり、ここ5年ぐらいの話ですけど、新しい流れもありますよね。

後藤:合併した町村の方でも、社会的起業する人が出てきてますね。

石黒:そうそう、それこそ僕たちが子供の頃には想像もしなかったような形の職業というか、生き方というのが芽生えてきてますね。

清水:町村合併も一つのキーになってる気もしますね。豊田とはまた違った文化を持っているところもありますし、個人で仕事されてたって人が多い土地もありますからね。
 ここ5年10年でみれば、文化不毛の地っていうイメージはもうないのかもしれませんね。

石黒:そうだと思いますね。まあ、文化不毛の地ってそもそもなんなんだとも思いますけど。

後藤:製造業が中心で、労働者の街というのと文化不毛っていうのがリンクしてたように思いますね。

石黒:イメージとしてね。

豊田の今
清水:これまでの話から、これからの話に移っていきたいんですが、ここ最近の変化からこれからを見据えてみてどうでしょうか。

後藤:やっぱり場があると、やる気がある人は、主体的に継続してやっていくなぁと感じてますね。例えば公共空間を使ったとよたあそべるプロジェクトでも、そこで音楽ライブをやっていると、いいアーティストがいるよって、そういう会話が生まれるんですよね。人材発掘にも繋がりますし、いい流れで、豊田が今動いてるんじゃないかなっていう思いますね。

石黒:やっぱりその大きな起爆剤は橋の下世界音楽祭だったという気がしてるんですが、、、。

後藤:それは感じますね、豊田発でやるっていう、受身じゃなくて、自らでやっていって、輪が広がっていますからね。

石黒:そこからさらに、コンテンツニシマチみたいな、そういう新しい試みもしていくっていうところが、今までやれなかったと言ったらいけないんだろうね、やらなかったことをやっていってる。僕らもちょっと反省するとこもあるんだけど。

後藤:そういう意味で言うと永山さんもやんちゃですからね。そのパワーというか、既成概念にとらわれずに一歩踏み出すという力がありますね。

石黒:行政もしくは地域も、支援とまで言っていいかわからないけど、認め始めたというか。正直ね、昔はちょっとああいうことをやると、抑えようとする力ばかりだったのが、最近は応援してるかなって。

後藤:そうですね、実際、永山さん自身も10年前に駅前で音楽をやってると警察が来てやめろって言われてたけど、今は逆にウェルカムだと。駅前の賑わい作りということもあって行政等も大分応援するようになってきてる。

清水:行政、市役所はどうですか?変わってきている実感はありますか?世代が変わってきて、市民に近づいている部分と、逆にある意味固くなっている部分もあると思うんですが、コンプライアンスの問題もあって。私が市役所入った頃は、まだ“エイ、ヤー”でやっちゃうことがまだ通用してた時代だったんですが、そういうのが許されなくなってきてる面もある。後藤さんは長年取材されてて、行政の変化って感じますか?

後藤:そうですね、、、1つ感じるのは、現場に行く人が減ってるような気がしますね。組織も大きくなって、プロジェクトも大きくなって、アウトソーイングも増えて、実態をどこまで把握した上でやっているのか?と思うところはありますね。ただ、みなさんすごく遅くまで仕事されてて、細分化されて、大変なのはすごくわかるんですけどね。だから、職員の人も、面白さ、仕事で得られる面白さが減ってきてるんじゃないかな、と思うこともあります。

清水:僕が市役所に入った理由は、5時から遊べるからでしたもん。

石黒:いい意味での余裕というか、遊びの部分がないと、色々足で見て回るというのも難しくなってくるよね。その辺をなるべく無駄な時間として、今どんどん削っていくけど、結果的にはそれがね、つまんなくなっている原因でもあるという気はしますね。

後藤:ずっと遅くまで電気ついてますもんね。

清水:そうですね~、電通問題ですね。

石黒:それこそ、役所の仕事だけじゃなくて、日本全体の仕事の仕方がそういうふうになってきてるような気がしますけどね。

清水:まあ、そんな中からもあそべるとよたとか、その他にも面白い事業も出てきていると思います。

略 ※豊田の岡崎の比較の話をしていますが省略 詳しくは映像45分頃~を参照

後藤:あと民間で、結構豊田市駅周辺の飲食店とかカフェでライブができるお店がここ2~3年で増えてきたなと。マスターが好きで、人脈でアーティストを呼んできてライブやったりして、結構面白いですね。

石黒:楽風とかね。じょあんじょあんで竹内さんが呼んできてたりね。

清水:より成熟感のある動きが出てきてますね。

石黒:いわゆるライブハウスとか、小劇場がないのが豊田っていうイメージだったけど、それ専門ではないけれど、それを兼ねた空間はずいぶん出来始めてるという気がしますね。演劇アカデミーの8期生で作った劇団が、今度柿本町にあるレストランで芝居をやるようで、そういうこれまでになり動きも出てきてますね。

後藤:そういう情報をまとめて発信するのか、、、

清水:そうなんです、それが<TAG>の目的です。

後藤:豊田で、そういうコンサートの情報なんかが、一括でワンストップで得られるメディアってないですもんね。

清水:<TAG>リニューアルして半年ですけれど、Facebookを結構頑張って見てて、Facebookに情報がいっぱい転がってるんですけども、それをなかなかまとめて見れないんで。その辺もやっていけるといいかなって思ってますけどね。

後藤:この前、楽風のマスターともそんな話しをしてて、何とかそういう情報を一括して発信してる、そこを見れば探せるものがあるといいねって話をしました。

石黒:情報はそれぞれでは発信してるんですが、個々になってしまっているので、それをまとめるものがあるとね。

清水:世界の情勢も、グローバリゼーションと自国主義のせめぎ合いみたいなところもあって、トランプがどうなるかわかりませんけど、お店が全部イオンになっちゃあなぁというかね、私もイオンで買い物するので、イオンも必要ですが、同時に個人店も大切で、日本全国同じものしか売ってないって本当にいいの?って思いますし、バランスをどう取っていくかだと思います。
 だから、全国の有名なお芝居を、名古屋やそれこそ東京まで観に行くこともあれば、地元の小劇場的な芝居もふらっと観に行くっていうバランスを考えていく時代になってきたって気はしますけどね。

新聞記者の目からみた豊田のこれから
石黒:今更なんですけど、後藤さんはなんで新聞記者になったんですか?

後藤:僕が大学生ぐらいの時に、ちょうど消費税が導入されて、社会党が土井たか子が党首になって、政界再編とか社会が動いてて、そういうところに携わりたいということはありました。もともと豊田が嫌で上京したんです、こんな田舎は嫌だって。でも、離れてみて、初めてよさを感じた部分もあって。

石黒:それは新三河タイムスに入るために帰ってきたんですか?

後藤:そうです、はじめは帰ってくるつもりはなかったんですが、全国紙の入社試験も受けてたんですがダメで、地元にも新聞社あることは知っていたので、それで受けて帰ってきました。
 東京の編集プロダクションとかも考えたんですが、生活が悲惨でしたからね、家賃払って飯食ったら終わりみたいな、それはちょっとなぁって思って。

清水:私も大学は東京だったんですが、同じです、学生時代の仕送りとバイトで手元に残るお金と、仕送りがなくなって給料で手元に残るお金が変わらないって気づいて帰ろうって思いました。

石黒:確かに、今考えると、あの頃、時代の潮目が変わった時だったと思うんだけども、そこから新聞記者でずっとやってきてて、今のこの時はどうですか?それは日本全体として、豊田として両方あると思いますけど。

後藤:そうですね、、、あんまり面白くはない、ってことはないですね。でも、安定はしてるけど、多様性がちょっと失われてきてる気もしますね、文化の面で言えば、お二人が関わっている演劇だとか、映画だとか盛り上がってきてると思うけど、全体的には何か単一的な感じはしなくもないと思う。
 これだけ人口が増えて、都市として考えると、もっと何か色々あってもいいかなぁって、そんな感じがしますね。

清水:国というレベルでどうにかしようっていうのはもう限界かなっていう感じはありますよね。もう悪くなってくしかないだろう、財政的にも近い将来破綻がやってくるんじゃないかとか。そんな中で、どう勝ち逃げするかみたいな、それは個人ではなくて、この街だけ一緒の泥船には乗らないようにって準備をしておかないとと思うというか。

石黒:安倍政権になってね、いまだに経済経済って言ってるじゃないですか。本当は震災の後に変わるべきだったんだけど、人口もこれからどんどん減っていく中で、明らかにライフスタイルというか、豊かさの手法を変えていかなければいけないのに、従来どおり経済経済ってなってしまうというね。

清水:国会ってすごく遠くて、どうこうできる感じがしないんですけど、豊田市政とか豊田市議会なら、もっとコミットして、豊田市議会なら動かせるかもって思うことも大切だと。

石黒:やっぱり自分の生活と照らし合わせてね、人間って行動するわけだから、そこをまず見つめ直すっていうところでしょうね。

清水:だからこそ、地域新聞って重要度が大きいですよね。

石黒:うん、すごく大きいと思う。

後藤:今の太田市長は、まあずっと市役所出身者の市長が続いているという批判もありますけれど、いろいろ柔軟にやられているという印象はありますね。

清水:太田市長は、私が市役所に入った時の隣の係の係長だったんですが、本当は市長をやるタイプではないですよね、学者肌というか、いわゆる昔ながらの政治家というタイプではない。でもその分、私たち側の気持ちも理解してくれてる感じもあると言うか。

石黒:ぐうーっと1つのことを深く行くよりも、いろんなことに目配せしてる印象ですね。

清水:新三河タイムスはこれからも重要な地域メディアの一つだと思うんで、後藤さん個人もFacebookでいろいろ発信されてて、それも続けていって欲しいです。
 最後に後藤さんから、これからの豊田でもいいですし、これからのご自身のことでもいいんですが、締めていただければと。

後藤:先ほども言いましたけど、豊田市駅周辺が、僕が高校3年生の時にそごうができて、北地区の再開発がまもなく終わって、一区切りだと思うんです。ハード面では整いますけど、魂を入れていかなきゃいけないですし、周辺に大規模施設ができていく中で、いかに豊田独自のものを出していけるか。

清水:あと駅の周りももうちょっと変わるって話ですけど、ラグビーのワールドカップがあって、東京五輪があってってで、大きな区切りが来るんだろうなって気がしますね。

石黒:観光という面ではどうなんですか、豊田は?

後藤:観光を業としてやっていくのは、なかなか難しいんじゃないかなぁ、新しい観光協会ができますけど、日本の中でも、観光業として年間を通じらやっていけている地域は限られてますよね。京都、東京、大阪くらいかと。今のまちさと未来塾なんかも面白い試みですけど、あれを、業としてはなかなか難しい。市民の余暇活動とか、リフレッシュの場として、産業都市だけじゃつまらないので、それぞれ風土とか歴史を生かして、残って欲しいというか。

石黒:そうすると、駅前の再開発も外からの人に向けてというよりも、この40万人の人口に向けてーまあ減っていくかもしれないけど、その40万人の人口の中で、まちづくりを考えていかないといけないっていうことなんですかね。

後藤:それで面白いと思えば、それを見て、他から人も来ると思う。そこの地域の人がその地域を楽しまないで、他から呼ぶっていうのはなかなか虫のいい話なので、そういう意味では、自分たちで盛り上げて、楽しんで、なんか豊田の人楽しんでるよ、みたいなことが波及効果で広がっていくと面白いなと思いますね。

石黒:クルマの街として歩んできて、そこはこれからもついてくると思うので、クルマとか交通のモデル都市としての面は世界の人が見に来る部分だとは思いますしね。

清水:それこそトヨタ自動車は、日本という国がなくなってもどうやって続けていくかを考えているでしょうし、そういう精神というか、気持ちは、トヨタ自動車のアプローチと同じでなくても、持ってなくてはいけないと思いますね。

後藤:豊田って、バチカンみたいに、他の自治体とはまったく状況が違うというか。

清水:そうなんですよね、いわゆる産業も人も過疎化が進む地方都市というのではないですね。

後藤:あれだけたくさんの人がいるので、もうちょっと地域に関わるというか、、、。

石黒:うん、実験都市であってもいいと思いますね、新しい交通システムとかだけじゃなくて、文化も含めて、いろんな実験的なことをやれてるいる、それがよそからみると、新しいこと未来への先駆けでやっていることに興味を持って来てくれるという風な、そういうまちづくりができるといいなと思いますね。

清水:この前ここにコイケヤクリエイトの西村さんをお呼びして話を伺った時に、あそべるとよたとかまちさと未来塾とかのサイトやフェイスブックページの運営もされてて、あとフリーペーパーの耕Lifeもですね、情報を発信されている中で、いわゆるフォロワーが1,000人、リーチが10,000人くらいあると実際に動いている実感がするということを聞いて、耕Lifeの発行部数も今15,000部だそうですが、具体的にそれくらいの単位の数字が見えてきていると。僕たち1万人が動くってこれまでまったく想定できてなかったですけど、SNSを使うと、10,000人にとりあえず情報が届いくというのは不可能ではなくなってきてると。

最後も雑談で
清水:同世代での昔話は楽しいですね~。それに、後藤さんと私は東京で同じ大学に通ってたんですよね、学部が違うんで全然知らなかったですけど。サークルも私はバンドサークルでしたが、後藤さんは、、、。

後藤:いわゆるお遊びサークルで、テニスとかスキーとかやってました(笑)。なんか不思議な感覚ですよね、そういう2人がここで話しているという。

清水:そういうのもフェイスブックで知ったんですよね。

後藤:東京で演劇で頑張っている小林至君を取材した時に、清水さん知ってるってなって。

清水:そうそう、そうなんですよ、高校の時の水泳部の後輩で。

後藤:彼の話は面白かったですね。

清水:小林君は、早稲田で演劇部に入って、卒業できたのかな?

後藤:内緒の話、卒業できなかったって言ってました。

清水:それこそ、1年生の時にもう4年では卒業できないことが決まってたって言ってましたからね。

石黒:早稲田の演劇って典型的なパターンですね。

後藤:30代までは、バリバリの演劇最前線でやりたいって言ってて、今はワークショップとか、子どもを対象としたものも、東京近郊の自治体とも連携してという事業もやってるそうです。

清水:いずれ豊田に帰ってくることがあったら、何か一緒にやりたいですよね。

後藤:豊田で何かやりたいって話もしてました。

清水:5年10年経ったら、また振り返って豊田の5年10年の話をするのも、いいかもしれませんね。
今日はどうもありがとうございました。

後藤:ありがとうございました。

ゲストプロフィール
後藤真一(ごとうしんいち)
新聞記者、新三河タイムス編集長。豊田市出身。在住。高校卒業後東京の大学に進学、卒業後帰郷し、新三河タイムスに入社。以後、豊田市内の様々なイベントや催し、会議等に参加し、Facebook等で紹介、ふっとワークの軽さと顔の広さには定評がある。
新三河タイムスサイト http://www.shinmikawa.co.jp/

ホストプロフィール
石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作・フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。


2021年5月26日水曜日

【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第6回「とよたの歴史・遺産とアート・カルチャー」ゲスト:天野博之氏(地域人文化学研究所)文字起こし(2016.12)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。再開をしたので、<TAG>第1期公開分で文字起こしができていなかった分の文字起こしを少しずつ進めています。
今回は2016年12月公開分の文字起こしです。大変遅くなりましたが、5年経っても興味の尽きないお話をしていただいてますので、改めてでも、初めてでも、動画視聴と合わせて文字起こしお楽しみください。
<TAG>ダイアローグ動画 ゲスト天野博之氏 → https://youtu.be/VnrVz--O-a4
<TAG>チャンネル登録もよろしくお願いします → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。

とよたの歴史・遺産とアート・カルチャー
出演:ゲスト/天野博之氏(地域人文化学研究所)ホスト/石黒秀和 清水雅人 2016.12収録
ゲスト紹介
清水:みなさんこんにちは!<TAG>通信映像版12月号です。
略 ※ごあいさつ省略します。
 6回目ということで、今回のゲストは、、、地域人文学研究所の所長さん、ということでよろしいですか?

天野:えーと、地域人文化学です

清水:地域人文化学!すみません!

天野:(笑)の代表理事です

清水:一番偉い人ですね?天野博之さんにお越しいただきました

天野:よろしくお願いします

清水:天野さん、何年生まれですか?

天野:昭和44年ですね

清水:もしかして3人同い年ですか?

天野:僕が早生まれで学年は一つ上ですかね

石黒:ああ、でも44年生まれという事では揃った

清水:市役所の期では2つ?3つくらい上ですか?

天野:平成3年に入ってます

清水:じゃあ3つ上ですね。僕は平成6年入庁ですので

石黒:元市の職員(清水)、現市の職員(天野)ですね

天野博之氏経歴①
清水:ここからは天野さんがどういう人かを聞いて行きたいんですが、もともと歴史が専門なんですか?

天野:専門というよりは、好きな分類ではありました。市の職員としては一般行政職です。学芸員の資格は持っていますが、採用としては一般行政職です。

清水:大学時代の専攻は?

天野:考古学です。人文学部の、比較文化論コースの、考古学専攻です。ただ、やっていたことはメソポタミアです。日本のことせずに(笑)、ローテクな灌漑農耕に興味があって。麦の生産量はヨーロッパの3倍以上あったにもかかわらず、なぜメソポタミアが滅んでいったのか…というところに興味があって。専攻とはちょっと関係ないんですが、勝手にやっていて。それで、また関係ない市役所に就職して(笑)

清水:ちょうどバブルの最後ですよね?

天野:そうですね。ギュっとあがって、ガクっと落ちる前で、紛れ込んでしまいました(笑)

石黒:行政職で入ったけど、今は大学でやっていたことをまたやっている感じですか?

天野:いや。全然違いますね

清水:仕事に(考古学が)考古学が関わってきたのでは、、、

天野:文化財課に入って、いきなり現場に行かされたんですよ。おまえ掘ってたろ?って

石黒:最初にお会いした頃は、そのイメージでしたね

清水:お二人が最初に会ってるのは?

石黒:天野さんが暮らし発見館(豊田市近代の産業とくらし発見館)を立ち上げるちょっと前くらい?何が最初だったかは記憶にないんですけど

天野:何でしたかね…。えーっと、繭だ!

石黒:じゃあ繊維チームだ、生涯学習課でやっていた授業(物づくりなぞなぞプロジェクト)で、僕は繊維のチームリーダーをやっていたので、それで天野さんにいろいろ教わったんですね

清水:暮らし発見館を立ち上げたのはいつですか?

天野:平成17(2005)年ですね。最初は、昔、発掘のアルバイトをしていたことを上司が知っていて。アイツ掘れるだろ?と。それで希望はしてないんですけど文化財課に異動になった。ちょうど現場を立ち上げるのに人手不足で白羽の矢が立ったと。でも先ほど言った通り大学ではメソポタミアをやっていたので、日本のそういった基礎知識は無かったんですが、現場をやりながら勉強して。それで最初にやった現場で、東日本で一番古い鍛冶屋さんの遺構を掘り当てちゃった。

石黒:それはどこですか?

天野:南山畑です。今、広川町にあるんですけど。今は住宅街になっているんですが、一角に碑が残っています。半島状に突き出た台地の、集落を溝で囲んだ場所があって、高地性集落というんですが。弥生時代、卑弥呼の時代の一時期だけあった集落なんです。そこから鉄鏃(鉄の矢じり)が三点出ているんです。弥生時代の鉄が出るというのは、愛知県ではあまりないんです。愛知県全体でも二十数点しか出ていないうちの三点がそこから出ているんです」

清水 石黒:へえ~

天野:カチカチに焼けた火の跡があって、なんだろうね?って土を振るっていたら、本当に細かい鉄片とかが出てきて、鍛冶屋さんをやっていたんだろうという推論になって。調べたら、東日本では一番古い遺構だと。

石黒:ものづくりの街豊田市で、鍛冶屋の跡を見つけたと。ストーリーとしては、すごくいいですね。

天野:弥生時代終末期だと、近畿ではたくさんあるんですが、愛知県では少ないんですよ。そんな遺跡を掘っちゃったので、責任もって勉強しなくちゃと思って。そこから歯車が変わったというか(笑)

石黒:今では、プライベートでもいろいろ掘ってるんじゃないですか(笑)

天野:いやいや(笑)掘るものが違いますね。もっと違うものを掘りたいんですけどなかなか(笑)

清水:文化財課は長かったんですか?

天野:結局、13年いましたね。南山畑の遺跡掘って、その後にシンカノヤマっていう遺跡があって。そこも試し掘りっていうのをやったら見つけちゃって

清水:それはどの辺ですか?

天野:猿投の亀首町の辺りで、道路を通すのに掘ってみたら結構なものが出てきたので、2年くらいかけて調査をして。次は史跡整備をやって。最初の鉄鏃の化学分析なんかもやったので、お前、化学もやれるだろ?ってなぜか勘違いされて(笑)
 それで、宇都宮三郎の特別展をやれと言われたのが、平成13(2001)年ですね。それで、近代も勉強しなくちゃと。ちょうどその頃、考古学の面白さを皆さんに伝えるには、身近な歴史のところから紹介していった方がいいんじゃないかと。古いものを残すことの意味というのは、現在や未来に活用していくためという事なんじゃないかと、自分の中で課題意識があって。そこから近代化遺産にシフトしていって。田んぼ案内という本を出したり、それが暮らし発見館に繋がっていくんですけど。

清水:発見館は元は蚕のことをやっていた所ですもんね

天野博之氏経歴② 豊田市近代の産業とくらし発見館、足助重要伝統的建造物群保存地区、五平餅学会
天野:蚕業取り締まり所と言って、蚕の卵を検査するんです。卵から伝染病が広がると蚕が全滅してしまうので、それを防ぐ検査をする場所だったんです。大正10年に建てられた、当時では最新式の鉄筋コンクリートの建物で、上部は日本の和風の屋根、和洋折衷なんですよね。そういう面白い建物が空き家になるっていうのをなんとか活用しろってことで、文化財課に話が回ってきたんですが、最初僕はそこをメイドカフェにしようと

石黒:メイドカフェ?!

清水:流行り始めたころですね?(笑)

天野:そうそう(笑)しかも平仮名で、メイドさんだけじゃなくて、三世代交流ができたらなと思って…あの…あの世に近い人たちも来ていただいて…メイドさんと、めいど(冥途)さん両方いて、スタジアムに行く人達が、ちょっと立ち寄って交流できる場にしませんか?って言ったら、それは難しい、、、って言われて(笑)

清水 石黒:(笑)

天野:じゃあどこにも負けないものを作ろうと思ったときに、ただの資料館というのは嫌だったんですね。名前にもこだわって、近代から豊田を発見するって言うコンセプトにしよう。ただ人が来るのを待ってるんじゃなくて、とにかく仕掛けて行こうっていう能動的な館をコンセプトにしました。なので、資料館じゃなくて発見館なんです

清水:それから足助支所に行かれたんですね。五平餅学会への関わりもその頃ですか?

天野:五平餅学会は足助に行ってからです。文化財課の最後の仕事が、足助の街並みの保存なんです。合併後の足助の街並みをどうするんだという話になった時に、合併協議の書類を見ても文化財として伝統的建造物群保存地区を守るということはどこにも書かれていないんですね。旧足助町時代も、あの場所は都市開発と商売でなんとかやっていこう、開発型の都市整備で景観を守っていこうという引継ぎがされていたんです。

石黒:へえ~

天野:なので、当時の市役所も、都市計画課と都市整備課という部署が街づくりに入っていて、文化財課は誰も動いていなかったんです。でもそこで下水を通したり電線を地中化するために地面を掘ったりすることで古いものが残るだろうかと、足助の街の良さが無くなってしまうんじゃないかと危機感を抱いて、住民の方が参加している都市整備のワークショップを覗いてみたんです。そうしたら、どこそこにレンガ風の建物を作ろうとか、道の真ん中に溝を掘って鯉を放そうとか…

清水:
観光地を作ろうみたいな

天野:はい。でもそうじゃないなと。そんなことをしたらこの街は死ぬんじゃないかと思って。その街の本質を大事にしないとこれからは負けていく、どこにでもあるような街になってしまう。本物を残しながら何か出来るんじゃないかと思いまして。上司を引きずるような形で行って、勝手に地元に提案をしちゃったんです。そこから足助と係るようになりました。それが平成19(2007)年ですね。

清水:なるほど

天野:最初は、都市整備のほうに怒られましたけど(笑)、でもちゃんと理解があって一緒にやらせていただいて。住民の方々とも勉強をしていく中で、古い建物が壊されるっていう話を聞いて、そこに乗り込んで行ったりして。所有者さんと3回以上話し合って、ある時その方に、先祖から受け継いだものを引き継げる立場にあるのに、それをしないんですか?って言ったんです。こんなキツイ言い方ではないですけど

清水:柔らかくね(笑)

天野:ええ(笑)、確かにその建物は柱が曲がってたりしてるんですけど、新築にしてしまったらこの雰囲気を出すのに160年かかりますよと、その時代は買えませんよ、というようないろんなお話をさせていただいた時に、相手の目の色がチラっと変わる瞬間を見たんですよ。それでヨシ!と思って。
 熱が伝わると言うか。自分は行政の人間でもあるので、やらされ感じゃいけないと思って、住民の方が動きやすいように、皆さんと一緒にやっていくという感じで、やっちゃいました

清水:区域指定というのは、その頃にあったんですか?

天野:区域指定は、平成23(2011)年度に重要伝統的建造物群保存地区になったんですが、その前に話し合いをしていて、先行して都市整備課や都市計画課があの区域を囲っていたので、それを踏襲した形ですね

清水:本当に壊しちゃうとそれまでなんでね

石黒:その時の熱意が、今の足助に繋がっていると考えたら、大功労者じゃないですか

天野:いやいや。重伝建なんて大変な事を持って行っちゃったもんですから、今でも義理と人情ですわ。そのあと足助支所に行って、開発と保全の調整もさせていただいたんですけど、足助支所にいる頃はいいよと。でも異動になってバイバイじゃ義理が立たないだろうと。一緒にやっていただいた方の言葉で、今でも忘れない言葉が「お前にだったらキレイに騙されてやるよ」と。それだったら腹をくくってやらないとイカンと。それが今の寿ゞ家の活動に繋がってます。

清水:それで足助支所に行かれて、今の地域文化学科研究所の立ち上げに繋がったんですか?

天野:そうですね。重伝建だけじゃなく、どこかの文化財を残してくださいとお願いしていたり、五平餅学会というのを立ち上げたり。

清水:五平餅を名物にしていこうとする上で、裏付けとして五平餅学というブランディングをされてたイメージがあります

天野:そうですね。

石黒:豊田市を五平餅発祥の地と

天野:私が学説を立ててますから(笑)

石黒:長野のほうの人たちは…

天野:大丈夫です!(笑)

清水:飯田街道を伝わっていったということで…

天野:五平餅文化圏をどう捉えるか。そしたら豊田市が発祥の地でしょ!という学説なので。

清水:そういった活動が広がってきて、、、

天野博之氏経歴③ 地域人文化学研究所、寿ゞ家、とよた世間遺産
天野:それで、ボチボチ大変になってきたな、ひとりで抱えてるわけにはいかんと。
 寿ゞ家も言ってしまえば、あばら家だった所をなんとか支えて行かなくちゃいけない。負の遺産です。

清水:元々は料亭でしたね。本当に華やかりしき頃に芸者さんも出入りしていた所ですよね。

天野:そこが空き家になって十数年で、廃屋で。地域人文化学研究所のホームページにも当時の写真があるんですが、もう中はジャングルみたいでしたからね。そこから再整備するっていうとてつもないことを背負ったので、ちょっと一人じゃ抱えきれんなと。いろんな活動をするには団体がいるだろうということで、平成25(2013)年に足助支所から猿投支所に異動になって、足助地区とは利害関係のない部外者になったタイミングで自分の団体を立ち上げるという形になりました。

石黒:じゃあ、猿投に移ってから地域人文化学研究所を立ち上げたんですね。

清水:当時の<TAG>の交流会で、天野さんが名刺を一生懸命皆さん居配ってたのを覚えてます。

天野:営業しなくちゃいけないんで(笑)

石黒:天野さんの中に、足助支所を離れたら立ち上げようという思いがあったんですか?

天野:タイミングですね。寿ゞ家をやるのに、足助支所のままじゃいかんと思っていたんですが、自分個人でというよりは、皆さんと共有したいと思ったので、じゃあ、何か立ち上げたいと。そういうタイミングでした。

清水:そこから4年経って、寿ゞ家も綺麗になって、再生した

天野:ジャングルを切り開きながら、使える所を作っていって、初年度で足助の街並みのデザインを考えるという講座を開いたり、中学生の総合学習の体験とか。あと、当時愛知大学と繋がりがあったので、学生を呼んでこき使ったりしたら、二度と来なくなりましたけど(笑)

清水:そこまでやるのかって(笑)

天野:観光学を学びに来た学生を、物片づけに使っちゃって(笑)

清水:あとは、最近で言うと足助ゴエンナーレも、、、

天野:今年3回目だったので。だから割と騙し騙し使いながらやってます。

石黒:3回とも寿ゞ家でやってるという事ですか?

天野:そうです

清水:いわゆる、アートプロジェクトというか、ワークショップとか。それ以外にも手広くやってますよね

天野:地域人文化学というのは、全部意味があって【地域】【地域の人】その人が作っている生活という意味の【人文】そこから生まれる【文化】それらをまとめて、面白い化学反応を起こす研究所という意味で【地域人文化学研究所】

石黒:それぞれ単体では無くて全部繋がってるわけですね

天野:人文化学というのは、通常サイエンスのほう【人文科学】なんですが、僕は化学のほうで。僕ピンバッチ付けてるんですが、宇都宮三郎っていう豊田にもゆかりのある化学者なんです、最初に【化学】という字をケミストリーに当てたというか、略語にした人ですし。

清水:そうなんですか

天野:日本で初めて国産のセメントを作った人。(近代的な)建物を作るには必ずセメントを使うので、建築の父でもあるし。いろんな初めて物語をやってる人なんです。その人の墓が畝部西町にある。その検証活動もずっとやってます。遺品の整理をさせて頂いたり、お墓参りには必ず行っていたりといった活動をしていたり。
 五平餅学会も入ってきたし、稲武のほうの富永という集落の街づくりのお手伝いもさせていただいて、寿ゞ家もあって、他にもいろいろあって、例えばデカスプロジェクトでゴエンナーレやったのもそのひとつ。
 つい先日やったのが、タートルアイランドの永山君と地元の人と一緒に、寿ゞ家で奄美の竪琴の演奏会とアルコドの演奏会、いろんな踊りもやったりして、皆さんに楽しんでいただくっていうイベント。

清水:西町と足助と長野の飯田をツアーみたいな感じでやってましたね

天野:はい

清水:そして今日は額を持ってきていただいてますよね。

石黒:これがホットな話題でね(笑)

天野:はい(笑)豊田世間遺産!豊田市の面白い価値観を持つ【ひと】【もの】【こと】を私どもが勝手に認定させていただく。
 これも自分でデザインしたんですけど、こういったものを贈らせていただいて。これを今年から始めました。

清水:世界遺産ならぬ、世間遺産

天野:世間が認める

石黒:モノだけじゃなくてね

清水:イメージとして、ハイカルチャー(伝統)とかそういうものでは無くて、身近なものでも遺産になるものがあるんじゃないかなというとこですね。

天野:要は、文化財じゃないよと。世界遺産ではないよ。でも世間にはいっぱいいいものあるよねと。生活の中から出てきたものとか。あとはアートとか、宗教上の主張をしてるとか、そういうものじゃないんだけど、なんかいいもの、いい味出してるおっさんでもいいんですけど。身近にあるものってちゃんといいねって、地域性のあるもの面白いものに価値があったらいいねって認めていけるきっかけになるといいかなと。

清水:これは募集もかけて

天野:そうです、公募で。今年は39件応募があって、そのうちの30件を世間遺産に認定しました

清水:それでこの額をお贈りしたと

天野:今ちょうど配っているところです

清水:これは今後継続して増やしていこうと

天野:そうですね。今年は例題も兼ねて数多くやったんですが、年間10件くらいは継続してやっていって、とりあえずは100件目指そうかと

清水:これはサイトを見ればわかるんですか?

天野:地域人文化学研究所のホームページに豊田世間遺産というページがあって、そこに一覧表が出ています

石黒:研究所の事業としてやっているという事ですか

天野:
そうです。理事会を通して一応(笑)、認定作業をしたんですよ

清水:例えば、五平餅とか他には何がありますか?

天野:例題として出したのが、寿ゞ家の軒先にぶら下がっている鈴。なんの変哲もない鈴なんですが、寿ゞ家っていう所は江戸時代から続く旅籠だったんです、元々は鈴屋という名前だった。看板が残っているんで分かったんですが、多分その関係の鈴なんですよ。それがまだぶら下がっている。

清水:屋号代わりというか

天野:ええ

石黒:じゃあ恐らく江戸時代からあるだろうと

天野:ん~(笑)それは分からないですけど(笑)でも物語になる。その鈴を見れば語れる。これは面白いじゃないかということで例題としてまず認定してます。
 あと足助で言うと、寿ゞ家の近くにある、からくり小屋を作っているウラノさんというお父さんがいらっしゃるんですが、裏通りを歩く子供たちを楽しませたい、人を楽しませたいという事で、自作のからくり小屋をいくつか作っていまして。そのお父さんは【ひと】として認定しました。そういう活動をしている人は素晴らしい!地域を盛り上げながら楽しんでやってらっしゃるので、それはいいなと。
 あとは公募できたものだと永覚町のほうにイシカワさんという方がいらっしゃって、自分で車を買ってきては、レストアしてコレクションしているんですよ。その方は、古き良きものをコレクションする【ひと】として認定しました。コレクションには、モーターサイクル、昔のドイツナチスの軍事用の単車とか、アメ車の古いのとかがズラっとあって、自分で直しながら動かせるようにしていて。面白く生きている、自分で価値観を見出して、自分で価値を作ってらっしゃるということで、そのコレクションも認定させていただきました。

清水:地域の伝統に基づくみたいな縛りも特に無いんですね

天野:なしです。文化って自分たちで価値を作り出していかなくちゃいけないと思うんですよ。僕自身としては、伝統的っていうのは革新の連続。連続性があるから伝統として続く。残っていくから伝統なんだろうと思っているので、別に伝統文化には拘らないです。これから新しく作る【もの】でもいいし、それをやる【ひと】でもいいし。僕が面白いと思えば。

一同:(笑)

天野:そこが基準ですよ

石黒:これは毎年やる訳ですか?

天野:毎年やります。6月くらいに募集を立ち上げて、秋口くらいに締め切り。そこから私も調査をして認定させていただくという流れなので、年末のタイミングで認定書を発行しようかと思ってます。

清水:ここまで、天野さんの紹介でもう30分喋っちゃいましたけど

天野:あ!もう30分ですか!(笑)

歴史・遺産とアート・カルチャー アートは街を面白くする手段
清水:ここから本日のテーマ”とよたの歴史・遺産とアート・カルチャー”ということで。
 僕たちの世代って、いわゆる日本的なものっていうのにあまりかかわらずに来ちゃった最後の世代じゃないですか。半分戦後に侵されてるというか、アメリカに侵されて(笑)、思春期を過ごしてきたというか。
 でも、ここ10年、15年くらいでアートプロジェクトに日本的なものを取り入れようっていう動きが出てきてる、今年のデカスプロジェクトを改めて見ると半分くらいは日本的、伝統的なものをアートで表そうっていうものなんですよね。そういった動きはどこから出てきたのかなと思っていて、、、あまりにも漠然としてますけど(笑)

石黒:天野さんは、そもそもアートイベントをやろうっていう意識はないですよね?

天野:そうですね、ないですね。アートを僕は道具だと思ってるんですよ。表現ではあるんですけど、一つの手段だと思っていて。
 何故かというと、僕の目的は地域振興、地域を面白くしたい。その道具としてアートを取り入れるという形を取っていて、アートイベント主体ではなく、このモノをどの様に表現しますかっていうときに、アートっていうと表現としてはすごく引き出しが多いので、そういったものを使わせてくださいと頼んでやってもらうというのはあります。
 だから、イベントとしてというか事業として、何を本質とするか。僕はアートというものを通してこの中身を引き出すっていう糸口をつける。もしくは、自分でやるんだったら別の切り口でこういう風にするっていう、いろんな手段の一つです。
 ただ、ゴエンナーレとかやっていて、アートっていうとどこからでも結びつきが入って来れるというのが多いので便利なんです。主催側と参加する側っていうところでは、意識の差はあると思うんです。やっぱり表現者であるし、皆さんは。

清水:実は価値があるんだよというのは切り口の一つですよね。本当にただの廃屋だけれども、価値があるんですよっていう、価値の転換をするっていうのは、天野さんは説得されたわけじゃないですか。それをひとつアートとして見せることによって、今まではそんなものとは思わなかったものがこう見えるとか。そういう意味では確かに手段なのかな。

天野:重伝建の話を進めたときにも、皆さんやっぱり、こんな家屋って言われるんですよ。でもそこにアーティスト達に作品を展示してもらう、現代芸術ですよ。アートを置いてもらうっていう事でマッチするんですよね、古い家屋と。
 地域の人にはそれを見せて、訪れる人に対しては新しい切り口の街並みっていうのを見てもらって褒めてもらう。そうやって新しい価値観っていうのを古い街並みに付けていくっていう作業もちょっとしたことがあります。僕の立場にとっては純然たる手段であったんです。でもアートというのは可能性はいっぱいあるので、その部分では非常に面白かったですね。それが今のゴエンナーレにも繋がっています。

石黒:今日天野さんをお招きしたのは、まさにそこをお聞きしたかったんです。アーティストっていうのは、街づくりとか地域振興っていうのは基本的に考えてないですよね。逆にそういうことを考えると面白いものはできないかなという気もするんですけど。実演者は自分の作品をつくることに専念、集中してもらえばいいと思うんですけど。
 その価値みたいなものを地域とか街づくりに、まさに道具、ツールと仰いましたけれども、使っていく人がいるというところで初めてアートのチカラっていうのが更に大きくなっていく。
 今、天野さんだけじゃなくて、亀田さんもそういうところがあるんだろうけども、そういう人がこの街にたくさん出てくると、結果的にはすごく面白い街になっていくし、アートというもののチカラがもっともっと、ある意味では世間、社会にとってとても必要なものという再認識にも繋がっていくんじゃないかなと思ってるんですけどね。

清水:どうしても新しいものを作ってとか、さっき言ってた足助でどうしようかって言うと、レンガで作ってっていうね(笑)、でも今ある視点を変えるとか、使い方を考えると、そこにひとつ楽しさというか価値が出るんだよっていう作業だと思うんです。広告業界でもストーリー作りだよって言うじゃないですか、そこにあるものには重厚なストーリーがあるわけで。それを発見するっていうだけでも全然違うんですよ。それに気づいてきたっていうとこもあるのかなと。

石黒:演劇でいえば、空間ていうのはとっても大事なんですけど。空間に積み重なった歴史だとか、その地域ならではの物語が背景に見えると、作り手としてはすごくイマジネーションが湧くというか、底が深くなっていくので、そういった空間っていうのは作り手も求めてるんですよね。だからそこで初めてその地域に住んでる人たちには思いもよらなかったような価値をアーティストが見つけてくれたり、そういった相乗効果みたいなものが、今の農村舞台アートプロジェクトもそうですけども、デカスプロジェクトの企画の中にもたくさん見られるなという気はします。天野さんの活動はまさにそうだと思いますけどね。

天野:何を大事にするかっていうところで、アーティストは自分の表現が第一じゃないですか。そこと、例えば寿ゞ家とかの僕が思っている本質、地域の中で何を大事にするかっていう本質が大事だと思っているので、そことのマッチングをどうさせるか。改善するためのキュレーターとか、化学反応を起こすような媒介者がいるんだろうなと思うんですね。それが上手くいけばイベントとして成功するし、上手くいかなかったら、ちょっとチグハグになってしまう。道具というのは失礼な言い方かもしれませんけど、表現の部分と、それを受け入れる受け皿というか醸成させるようなものとの間を取り持つっていうのはこれから重要だろうと思っています。

清水:今の話でふと思いだしたんですけど、僕が映画を作り始めて15年くらい経つんですけど、一番最初に映画を作った時は、ただ面白そうだからって動機しかなかった。本当にくだらない映画作って観てもらったら、自分の知っている街が映画になっただけで嬉しかったという感想があって。何気ないその辺のいつも歩いている道が、映画という中でスクリーンに映るだけで何か良いものに見えちゃうみたいな、価値が付加された瞬間があったと思うんですよね。だから地元を舞台に映画を作ることが面白いっていうコンセプトができたと思うんです。価値転換というか、今までそうじゃないと思っていたものをそう見せていくとか。いかにコーディネートするか、プロデュースするかみたいな。

天野:自分が慣れ親しんだ街っていうコンセプトというか、受け手のほうもそうでしょうけど、そこが大事なんでしょうね。何か大事なものがそこにあるから。そこを映画の中で引き出しているから受け手のほうも喜んだというのは多分あるんじゃないかなと思います。

自分たちの街を「面白がる」
清水:いわゆる地域活性とか地域振興って言葉が1990年くらいから出てきて、試行錯誤があったと思うんですけども、流れとしてはいい流れというか、元々あった日本という部分の良さというものを、古き良き日本という事ではなくて、大衆的な部分を上手く取り込んで表現していくというのは面白いなと思うんですよ。

石黒:ささやかな日常というか。例えば東京は面白いけれども、田舎の地方都市は面白くないという固定観念というか、我々世代は特にあるじゃないですか。だけどこの地方都市の、豊田の田舎の何も面白くないと思っていた場所が、実はとても面白いところなんだっていうことを、住んでいる人達がまず気付くことが大事だなと。

清水:実は住んでいる人達が一番気付きにくい部分でもあったりすると思うので

石黒:でもその事に気付いて、それを更に面白くしていこうとしたときに、地域への愛着も深まっててき、地域もどんどん面白くなっていくと。そういうことがこれから大事だと思うし、究極的には、自分の住んでいる街を楽しくしていく。

清水:生活との係わりみたいなところ

石黒:それは自分自身のためでもあるんだけれども

清水:前回ゲストの西村さんも「本当の豊かさって何だろう?っていう所から始まっているんですよ」って話をされたんですが、確かに日常の中でちょっとそういうものに触れるとか、その中の豊かさみたいなのが、新しいものに触れているだけじゃない、ディズニーランドに行くだけじゃない(笑)、ディズニーランド全然行ってもいいと思うんですけど(笑)、こっち側にも、身近にも豊かなものがあるんじゃないかっていうのは、とっても分かるというか、面白いなと思うんです。

天野:今は周りが騒がしい、いろんなものが飛び交っているんで、じゃあ、それに対しての自分って何だろうなって、ふと思うときがあると思うんですけど、やっぱり根っこが生えている人ってすごい良いなって思うんですよ。僕自身は、こう見えてもあまり根っこが無いような人間なので(笑)、一所に留まっていることができない人間なんですけど、でも足助の衆を見ていると自分たちに誇りを持っているし、例えば寿ゞ家とか自分の街で、何かしでかすっていう事をすごく楽しんでいるんですよね。
 僕はその場を提供できるっていう事は幸せなんです。自分たちを面白がる、自分の所を面白がるって非常に大事だな、そういう大人たちを見ていると、子供たちも俺達って面白いところに住んでるんだなと思うんですよね。
 先ほど、片田舎がつまらないっていうような事を仰いましたけど、東京は情報発信がすごく盛んで、面白いっていう情報は溢れてる。片やこっちはどうだって言うと、俺のところはやっぱり普通だっていうか、当たり前なんですよね、あるものが。それに気づかないというか。
 これ面白いじゃん!っていうのが世間遺産であったりっていうことのきっかけもひとつなんですが、面白さを自分たちで出して行こうよというのは大事だろう、それこそ情報発信とか、お二人がやってらっしゃる映画とか演劇とか、そういった表現の方法で出していくっていうのは大事だろうなと思います。

情報発信と「遊びごころ」
清水:ちょうどいい流れなんで。情報をどう集約して発信するかというのは<TAG>の元々のコンセプトですけれども。その辺の情報をいかに発信していくかという意識はどうですか?Facebookをやられたりだとか。

天野:ようやくFacebookを立ち上げてやるようになったんですけど、その前はブログだったんですよ。でもブログだと、一生懸命書くんですけど瞬時的じゃないもんですから、どんどんFacebookをやろうと思っていますし、その情報をためる場所としてのホームページがあって。とにかくweb上で発信しようと。
 で、会う人合う人、実際に顔を見せるのは究極の営業ですから、そこで宣伝したり、あらゆる機会を通して何とかやっていこうとしてるんですよ。ただ、今限界があるのが、動けるのが自分1人だし、webもそこに到達しなければ発信できないし、受け取ってもらえない。そこを打破できないかなとは思っています。
 僕は繋がりの中で、ゴエンナーレを全部自分でやっているわけでは無くて、キュレーションを実行委員長のオオノさんという方にお任せしちゃってるんです。そうすると、オオノさんがゴエンナーレや寿ゞ家をあちこちで発信してくれる。そういった繋がりの中で、例えば永山くんとかが現場で会って〝なんかやろうか?〟〝やろう!〟っていう風にまた発信してくれる。そういった本当に人的なネットワークでやっていければいいかなと今思っています。

石黒:そこだけアナログなんですよね、きっとね。アナログで人との繋がりを作ってその人達にまた発信してもらうと。

清水:そこが地方都市の豊田、40万人くらいだと顔が見えるという部分が確かにあるのかなと思いますね。あともうひとつの側面で言うと、ビジュアル的なカッコよさというのを天野さんにとても感じて、ゴエンナーレのチラシってカッコいいじゃないですか!単純にそこって大きいと思うんですよね。あとこの世間遺産の認定証。このパロディ感の面白さとかね。

天野:実はあるテレビ番組のマークのパロディで作っちゃいました(笑)TBS系のね(笑)

清水:そうですよね(笑)そういう遊んでるなっていう感じがいい。ゴエンナーレのチラシやポスターもとてもビジュアル的に訴える。そういうものとの融合も発信力がある。

石黒:いやもうね、僕のイメージで天野さんに共通してるのは、遊びごころですよ。天野さんに怒られるかもしれないけど、五平餅学会だってね、大人の遊びをとことん突き詰めてね。この世間遺産もそうですけど、また新しい遊びが出てくるとそちらも開拓していくとか。楽しい遊びをたくさん作ってるなというイメージなんですけどね。

清水:それが伝わっているという感じがするので、それを更に集約していくと面白いのかなと思いますね。

天野:この世間遺産やるのに5年くらい考えてましたよ。世間遺産という言葉を始めて知ったのが5年くらい前なんですよ。

清水:この言葉はあったんですか?

天野:はい、最初は鹿児島のほうで世間遺産ツアーというのをやっているという情報を知って。何をやっているのかと思ったら、野っ原にもう使わなくなってなんかよく分からないトイレがあると。それが世間遺産になっていて。昔のアカセガワさんとかの路上観察ナントカってあるじゃないですか。あれの延長上なんですよ。なるほどそういう事もあるよな。価値付けすればそうだよね。
 それで調べて行ったら、もともと世間遺産という写真集があって、そこから出ているんですよ。世間遺産という言葉を作ったのは常滑の人なんですけど、言葉としてはそういったバックボーンがあったので、その定義をちゃんと自分で解釈をして、世間遺産って本当にいっぱいあるので、それに失礼にならないようなものをと。
 勝手にやっていると、他のものは世間遺産じゃないのかと言われちゃうと、それはもう違う話なんですよ。だからその辺は、僕はきちんと、豊田というのを付けて。我々は豊田の地域性を表す面白いと思ったものを遺産として認めます、という定義をちゃんと作ってから、でもどうしようどうしようとずっと思っていて、まあでも悩んでいてもしょうがない!やっちゃえ!となったのが今年だったんです(笑)

清水:これがFacebookにドン!って見えるだけでも、単純に面白いと思いますよね。

石黒:聞いただけで面白そうだなと、単純に思いましたもんね。

天野:ありがとうございます。そうやって引っ掛かってくれる人がありがたい(笑)

清水:
僕たち同世代ですが、サブカルを通った最初の世代だと思うんです、ノストラダムスの大予言を信じた世代(笑)。僕たちが子供の頃は、少し後ろめたさもありつつ浴びていたアニメとかのジャパニーズサブカルチャーが、今やメインストリームに来ているでしょ?外国にとってのCOOL JAPANの代表はアニメやアイドルやそういう部分と、日本的な部分というのの繋がりみたいなものも感覚として面白いのかなと思いますね。
 必要だとは思うんですけど、地域の伝統的なものを、学問的なほうにだけ持って行っちゃうとつまらなくなっちゃうという感じもして。遊びごころという意味で言うと、サブカルチャー的な、カウンターカルチャー的なものとの結びつきや雰囲気というのは持っていたいという感じはしますね。

天野:そうかもしれませんね。さっき石黒さんに遊びごころを持っていると言われて、自分では気付いてなかったんですけど、ああそうかもしれないなと。正直言って真面目に取り組んでるつもりなので(笑)

石黒:ああそうですか(笑)

天野:でも、それを遊んでるっていうふうに思っていただけるのは、僕はありがたいなと思います。そうか遊びごころっていうのも良いなって。

石黒:僕らが子供の頃って、外で遊んでたじゃないですか。まず、大体ひとり誰かが来るんですよね。そうするとそこに誰かが寄ってくると知らないうちに皆で鬼ごっこやったり、新しい遊びを作り出したりして。まだそういう感覚だと思うんですよね。だから最初に遊びたいという人間がいれば人って集まってくるんだろうな。

天野:確かに!

石黒:天野さんのやっている事っていうのはまさにそうで。僕がたまに寿ゞ家にフラっといくと、天野さん掘ってるじゃない(笑)、僕はよう手伝わないんだけど(笑)、ああ面白そうに遊んでるなぁって思って。それで次にそこに行くと誰かが手伝ってたりね。

天野:そうですね。確かに面白がってくれる人はいっぱいいるので。類は友を呼ぶっていい言葉だなっていて。変態が集まって来るんですよ(笑)

石黒:確かにね(笑)天野さん手伝ってるよっていう人は、みんなちょっと変わった人が多いよね(笑)

清水:まあでもね。今の文化は変態が作るものですから(笑)。変態、オタクが作ってると言われてますからね(笑)、でも楽しそうだなっていうのは、発信力になるとは思うんでね。

石黒:そんなこと言うと、豊田市役所で2人は変態たちですよ(笑)。そういうキーマンがいっぱいいる。

天野:豊田市役所って、自分で言うのも変ですけど、僕のようなヤツを飼ってもらってるんですよ。寛容な職場ですよ。

石黒:思う!そう思う!

天野:だから、豊田って面白いんですよ、僕がいることでそれが証明できてるかなと思います。

石黒:ホント、そう思いますよ。

清水:そんなこと言いながら、1時間も喋ってしまいました。

天野 石黒:もう1時間?!(笑)

未来に向けて
清水:では、最後に今後、来年に向けてとか、5年10年でもいいんですけど。天野さんとしてこんな事やってみたいなと思っているとか。未来に向けての話で締めれたらと思うんですけど。

天野:いろんな事を仕掛けては、楽しんでいますけど、僕ら地域人文化学研究所としては、触媒になる、化学反応を起こすきっかけになるっていうのがコンセプトにあるので。豊田をもっと面白くしていく。
 その面白くしていくっていう事が、また新たな事を生むっていう、そういった仕掛けづくりをやっていくと、その先にはオリジナルの〝とよた〟が見えてくるんじゃないかと。それを誰もが共有できるといいな。そういった世界観を作っていければいいなと思っています。

清水:まちづくりへの意識というのは、結構大きいんですか?

天野:まちづくりって言うと、なにか商業振興とか、来訪者を増やすとか、そういうイメージになっちゃうんですが、もっと自分たちに寄せて考えてみると、自分たちの街をどのように楽しむか、どう価値付けできるかっていう事が、地元の人間にとってのまちづくりだろうと思いますので。そこのお手伝いができればなと思っています。役所的にはどうしても都市整備とかそういう話になってしまうんですけど。

清水:行政的にはそういう事が必要だとは思いますけど、

天野:それは行政に任せればいい(笑)。でも地元側の人間としては、自分のまちをどう楽しむか。

清水:でもそれがたぶん魅力になって、自然と来る人も増えるだろうと。

天野:そうですね。やっぱり自分が楽しんで、いい!って言わなければ、人が楽しんでくれるわけがないと僕は思っているので。そこの楽しみ方っていうのは皆さんでやっていこうよ、それができればいいな。
 形は自分でもまだ分からないです、でも素材を見つけて、それを磨き上げてそこにある本質を見つけることが、僕は自分でも出来ると思いますから。それを上手く人に伝えたいし、そこから物語を引き出していきたい、そこを発展させて糸巻にしていきたいなっていうのは、夢として思っています。

石黒:両立だと思うんですよね。駅前の再開発もそうなんですけど、更地にして新しいものを作り上げいていくというのも大事なんだけれども、この地域に元々あるものの価値をどう発掘して活用していくかということも同時に必要であって、このふたつが両方ともが同時進行でいかないと、本当の意味でのまちづくりや地域づくりって成立しないんだろうなと思いますね。

清水:着実に人口は減っていくっていう話ですけど、でも自分たちの身の回りだとか、日本という国、もっと言うと、この豊田っていう生活圏の中で、そこの文化、生活の面白さを見つけていくというのは真っ当な感じがしますよね。

石黒:お金も減っていく、人もいなくなる、だけど後ろ向きに考えるんじゃなくて。地域とか自分の住んでいる狭い世界かもしれないけれど、そこをどう楽しくしていくかっていう事は考えざるを得ないから。

清水:そう。だからイオンに行ってもいい、でも次の日には寿ゞ家にって楽しむとか(笑)、それがまあ豊かさというか。そういうのが整いつつあるのかなと思います。そこを上手く結び付けていくのが天野さんだと思いますし。

天野:豊田っていうのは、その辺の可能性がいっぱいあって

清水:そうですよね

石黒:特に合併してから可能性が広がったと思うんですよね

天野:そうそう。多様な価値観はあるし、その質を高めていくっていう事が豊かさというか、楽しみにつながっていくのかなって。

清水:いわゆる旧合併町村地域っていうのは、開発されなかったがゆえに古いものが残っている。裏を返せば転換ですもんね。そこを発見できつつあるのかなっていう気はします。演劇や映像なんかでもそういう所を上手く取り入れていきたいと。

天野:
空間として使っていただければ、繋がってまた面白いことを起こしていけたら。また寿ゞ家も使っていただいて(笑)

石黒:もうそれは着々と狙っておりますので(笑)

天野:はい(笑)また面白い空間作りましょう。

石黒:
こちらこそお願いします。

清水:まだまだ話し足りなかったので、またお呼びして話が伺えればと思っておりますので。今日の所は一旦おしまいという事で。天野さんありがとうございました:

一同:ありがとうございました。

ゲストプロフィール
天野博之(あまのひろゆき)
 地域人文化学研究所 代表理事。豊田市出身・在住。
 豊田市の職員として、また個人として、埋蔵文化財の発掘調査及び史跡整備、近代の科学技術者・宇都宮三郎翁調査研究及び検証活動、豊田市内における近代化遺産(産業遺産)調査、豊田市の近代の産業とくらし発見館の設立・企画運営、足助の町並みを活かしたまちづくり活動・重伝建制度導入提案、足助地区における観光まちづくり活動、とよた五平餅学会旗揚げなどを経て、2013年地域人文化学研究所を設立。
 さらに活動の幅を広げ、寿ゞ家再生プロジェクト、とよた世間遺産、まちづくり支援など様々な活動を行っている。
地域人文化学研究所サイト https://www.catalyst-r.com/

ホストプロフィール
石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作・フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。



2021年5月11日火曜日

【コラム】「人生の極意」石黒秀和(2021.5)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

 昨年秋、突然左目に飛蚊症が現れた。病院に行くと加齢による硝子体剥離で、癒着した部分が網膜をひっぱっており、まれに網膜剥離に移行することがあるので定期的に検査していきましょうということになった。飛蚊症は治ることはなく、慣れるしかないようで、僕の人生から雲ひとつない真っ青な空、というものは消えてしまった。

 飛蚊症から約2週間後、今度はある朝起きたら世界が縦に回っていた。過去にもめまいは経験していたのだが、回転性のめまいは初めてで、なにより胃液すら出なくなるようなひどい嘔吐にたまらず近所の耳鼻科に駆け込み、波のように襲い来る吐き気に必死に耐えつつ幾つかの検査を終えると、医師は「まぁ、大丈夫でしょう。めまいはね、最終的には慣れるしかないから」みたいなことを言われあっさり帰されてしまった。家に帰って調べると、良性発作性頭位めまい症というよくあるめまい症だったようで、対処は、結局はやはり慣れるしかないようで・・・でも、果たしてこんなの慣れるのか? 当然慣れるわけはなく、今も毎朝、再びの発作に見舞われるのではないかとビクビクしながら目を覚ましている。

 新型コロナウィルスは、変異株の出現で新たなフェーズに入った模様。今までの三密対策では不充分という情報もある中、しかし全てを怖がり引きこもっていては、心身ともに疲弊するのは間違いないだろう。となると、対処は・・・やはり慣れ? あるいは慣れとは、過剰な不安から心身を守るための人類の知恵なのかもしれない。

 もちろん慣れてもらっちゃ困ることも世の中たくさんあるわけですが、でも、慣れるな、慣れるなと煽る世の中もやっぱりちょっとおかしいような気がする。空は多少余計なものが見えてもやはり空。めまいは、そもそも地球はいつも回ってる。コロナは、みんなで乗り越えましょう。

 適度に慣れつつ、しかし決して油断はしない。50歳を過ぎ、分かり始めた、人生の極意。


石黒秀和(いしぐろひでかず)プロフィール
1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。 


【コラム】「<TAG>再開に寄せて」清水雅人(2021.5)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

 地域振興、地方分権、地方創生などと言われて久しい。私は“地方”という言葉が嫌いだ。そこには、常に中央からの目線が含意されている。それぞれの人にとっては、住んでいる街こそが中央のはずなのに。

 少しずつ進んでいること、遅々として進まないこと、後退していること様々ある。だが、その中でもっとも遅れているものの一つが“情報”だと思う。それが遅れていることに気づいていないのでさらにやっかいだ。

 <TAG>は「下北沢でやっている演劇公演は知っているのに、豊田市内でやってる演劇公演のことは知らないって実はおかしくない?」という問いから始まった。以前あった雑誌ぴあの豊田版、ぐるなびの文化芸術版を作りたい、という思いがきっかけだった。

 地元の情報を伝えるメディアはここ20年で飛躍的に進化した。インターネット、SNS、ケーブルテレビ、コミュニティFM、フリーペーパーなどなど誰でも情報の発信者になれるようになった。地元のアーティストや文化芸術団体は、一生懸命それらを使って情報発信しているが、果たして届いているのか?

 「下北沢でやっている演劇公演は知っているのに、豊田市内でやってる演劇公演のことは知らないっておかしくない?」という問いは「東京都知事が昨日話したことは知っているのに、豊田市長が話したことは知らない」のと同義だ。「東京の感染状況は知っているのに、豊田の実際の状況はわからない」とも同義だ。

 メディアを通じて得る情報のほとんどが中央からの情報であることの自明性を疑うこと、生活に密着した身近な情報にも(飲食や買い物以外にも)もう少し興味を持ってもいいんじゃないかと気づくこと、<TAG>が、文化芸術分野を突破口にして、地域での情報についての意識を変える端緒になればと思う。

 お金にはならないので、少人数で時間の隙間を縫ってやっているので、不完全なゆっくりとした歩みではありますが、どうぞ応援よろしくお願いします。


清水雅人(しみずまさと)プロフィール
2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作、フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。


【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第34回「再開ごあいさつ コロナ禍での近況と<TAG>について」動画公開及び文字起こし(2021.5)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。2年ぶりの再開の今回は、ゲストは招かずに、発起人の2人が<TAG>について、<TAG>をお休みしていた2年間、特に昨年からのコロナ禍での近況や豊田の文化芸術界隈の状況を話しました。
<TAG>ダイアローグ動画 → https://youtu.be/L64cNBCBLQ8
<TAG>チャンネル登録もよろしくお願いします → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。
※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。

再開ごあいさつ コロナ禍での近況と<TAG>について
(出演:石黒秀和 清水雅人 2021.4.27収録)
自己紹介、<TAG>紹介
清水:みなさんこんにちは。<TAG>としては久しぶりです。

石黒:そうですね、2年ぶりくらいでしょうか。

清水:一応自己紹介しておきますか?初めて見る人もいるかもしれませんので。サイトに詳しいプロフィールは掲載しますが。じゃあ石黒さんから。

石黒:石黒です、豊田では演劇を中心とした舞台の活動をしています、作演出が主です。

清水:映画、映像関係の活動を豊田で始めて、現在は豊田ご当地アイドルStar☆Tを通じて音楽に関するまちづくりも行っています。
 <TAG>のこれまでについては後半で詳しくお話しますけど、さらっと紹介すると、<TAG>は、豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワークというもので、2013年から2019年2月まで活動していましたが、その後とよたアートプログラムという豊田市が主管する事業に引き継いで、豊田の文化芸術情報の発信を行って、この度2年でまた<TAG>としてリスタートすることになりました。
 2019年以前の<TAG>でもこの2人がホストになって、豊田で活躍する人材をゲストに招いてお話を聞く動画をアップしてきまして、特にこのコーナーを続けたいという気持ちもあって、<TAG>を再開することにしました。
 今月は再開初回ということで、ゲストは呼ばすに、この2人で<TAG>の説明、趣旨などをお話しできればと思います。サイトもリニューアルして、心機一転で再開のつもりです。

本題に入る前に、近況、コロナ禍での豊田での活動について
清水:ということで、<TAG>についてお話しするんですが、その前に、<TAG>をやっていなかったここ2年、特に昨年からのあまりにも激動な展開について話をしなければと思うんですが、、、。石黒さんとお会いするのも結構久しぶりですもんね?

石黒:リモートの会議では一緒になってますが、直接会うのは1年ぶりくらい?

清水:昨年秋ごろにとよたアートプログラムについての打ち合わせはリモートじゃなかったので、それでも半年ぶりくらいでしょうか。なんだかんだ言ってそれまでは<TAG>があったり、とよた市民アートプロジェクトの会議があったりで会う機会は多かったですからね。

石黒:コロナ禍で、夜はめっきり外に出なくなりました。

清水:イベント等で偶然会うというのもなくなりましたから。リモート会議だと会議の内容は話しますが、その前後に話をすることがないので、会議は早く終わっていいんですが、近況を聞くことがない。

石黒:いわゆる無駄話ね。

清水:なので、とりあえず近況を聞きたいと。どうですか、最近は?(笑)

石黒:
去年は、結構忙しくて、4~5月の緊急事態宣言が解除されて、何かやらなくては、という思いに駆られて、8月10月そして本公演として12月に舞台公演を行ったので、結果的にはここ何年かでは一番忙しい1年でした(笑)。
※「とよた劇場元気プロジェクト」豊田市で活動している演劇人が、コロナ禍の中で上演可能な芝居作りの試みたプロジェクト。詳しくはhttps://note.com/toyota_engeki
 3公演はプロデュースだけでなく作演出もやりましたので、芝居をやった1年だったなぁと。でも12月以降今のところは、公演は行ってません。そうですね、そうは言ってもやっぱりコロナに翻弄された1年だったなあ、コロナで始まり、コロナで、、、まだ終わってないんですが、そんな1年でしたね。

清水:第3派が落ち着いて、もうしばらくはいいだろうと思っていたら第4派ですからね、、、。

石黒:色々考えさせれられましたね、公演は今までとは違うやり方に挑戦して、それが正しいのか正しくないのかも分からずにやったんですが、、、。

清水:具体的に言うと、8月と11月が竹生通りにあるkabo.での公演で、、、

石黒:8月は役者2人お客さん2人という、密集できないことを逆手に取った形で、11月は4人ずつに増やして、12月は市民文化会館で、役者は8人くらいで、お客さんは90人限度くらいにして行いました。なんとかやれたんですが、終わった後も、色々考えることはありましたね。

清水:豊田の演劇界で言うと、とよた演劇アカデミー出身の劇団がいくつかありますが、それぞれの公演はできなかった?

石黒:まず、最初の緊急事態宣言で予定していた公演がすべて中止になったんですね、そこでまずガーンとモチベショーンが落ちた。それに、いわゆる音響や照明等のスタッフの影響も大きくて、この人たちは仕事としてやっているので生活がかかってますからね、会場、公共施設も一切舞台公演自体をやらなくなった。みんな“演劇の灯が消える”とか“文化の灯が消える”とか言いましたが、気持ち的にはまさにそういう気持ちでした。
 だからこそ何かをやろうと思って、緊急事態宣言明けの6月にはプロジェクトを立ち上げたんですが、その時点ではまだ演劇公演をやるなんて考えられない、名古屋の小劇場もそんな感じでした。確かに、そもそも稽古ができない、稽古ができなければ公演もできないという感じで、少なくとも年内は無理だなというのがその頃の雰囲気でしたから。
 でも、そんな中からいくつか豊田でも演劇公演があって、11月にはとよた演劇祭、2月には「あう つくる はじまる」これは豊田市文化振興財団文化事業課の事業ですが、演劇ファクトリーとこども創造劇場が中心となって開催されて。

清水:とよた演劇ファクトリーととよたこども創造劇場は、昨年はまるっとなかったんですか?

石黒:そうですね、例年の事業としてはなかった。今年は4月から募集が始まって、ちょうど募集が終わったところかな。
 そんな感じで、名古屋で公演を打つグループがいたりと少しずつ戻ってきてたんですが、またこの第4派で、、、振り出しに戻った感もありますね、、、。

清水:音楽ジャンルで言うと、橋の下世界音楽祭やトヨタロックフェスティバルは中止、トヨロックはコロナ以前に2020年は開催しないと決まっていたと思いますが、その他最近豊田ではライブの出来るお店が増えてきてますが、ほとんどライブはやれてない状況だったと思います。

石黒:清水さんのところはどうだったんですか?

清水:Star☆Tについて言えば、6月以降豊田スタジアムの広場で月1~2回程度ライブをやらせてもらって、秋以降は名古屋の比較的大きなライブハウスでのアイドルライブにも出演してという感じです。
 でも、例年発表している新作CDは作れませんでしたし、県外遠征もほぼできず、海外公演ももちろんできず、豊田市駅前のライブやフェスもできず、ネットでのグッズ販売等もやってなんとか現状維持、収益確保を最優先にした1年でした。

石黒:みんな色々工夫を凝らしてなんとかやっているんですよね。

清水:あそべるとよたプロジェクトなんかは、夏以降、第2派以降でしょうか、大分制限も緩和されて、市長も「恐がらずに対策を徹底した上でのイベント開催は進めて」と言われたという話も聞きますし、少しずつですが、豊田市駅周辺のスペースでのイベント開催は増えてきていると思います、またちょっと制限が出てきてますが、、、。
 映像に関しては、坂本さんのところ、とよたいかんぬ映画祭は11月にオンラインで開催してましたね。ただし、新作映画は制作できなくて、過去の作品などを上映してました。あとは、いわゆる本編、劇場公開作の撮影が11~12月に豊田でありまして、エキストラ派遣等でサポートしたんですが、石黒さんにも協力いただいて。

石黒:あれは、情報公開はされたんですか?

清水:ちょうどされたところで、タイトルが「僕と彼女とラリーと」、今年の10月1日から全国公開されます。
あと、アートに関しては、、、

石黒:とよたデカスプロジェクトが、非接触をテーマにして事業募集したら、今までで一番応募が多かったようですし、私たちも関わっているとよた市民アートプロジェクトの主催ですが、2~3月にとよたまちなか芸術祭がありました。実行委員会を作って、まちなかを使って面白い試みをやってくれたなと思います。
 そもそもとよた市民アートプロジェクトでも、いわゆるイベント開催中心ではなく、まちなかにアートがある、日常の中のアートという非日常を創り出すというコンセプトを言っていたので、まちなか芸術祭は原点に還ったとも言えると思います。

清水:面白い作品もありましたね。

石黒:そもそもアートの展示などは一気に人が集まるものではないので、こういう時には合っているのかもしれませんね。

清水:そんな感じで、なんとか継続してやっているところあり、1年休んでしまった、やめてしまったところもありという感じでしょうか。

コロナ禍で見えてきたもの
清水:それで、、、これは個人的な実感というか、気づいてしまったことなんですが、今回のコロナ禍で、コロナはすべての人に平等ですから、国としての危機管理能力のテストになっているという指摘も言われていて、確かにそう思うんですが、それってどこを切っても同じで、例えば地方都市の文化芸術としてみても、我々のような活動を文化として見ているか、ただの遊びをやっていると見ているか、の本性というか、考えが見えてしまう、露呈してしまうということがいろんな場面であって。

石黒:それは大いにあるね~。

清水:それも、そういう本性って結構個人単位で違っていて、例えば、Star☆Tのライブ会場を探す過程で、公園とか広場、その他の施設などを使いたいって施設や行政機関に相談すると「いや無理ですよ」ってほぼ門前払いのところもあれば、「どうやったらやれるか一緒に考えましょう」って言ってくれるところもあって、同じ基準のはずなのにものすごく違いがある。
 それって、平時だったら、地域振興、文化振興、まちづくりの活動は必要ですねって同じ対応なんだけど、こういう時になると「ここまで積み上げてきたStar☆Tの活動は、文化だし豊田の財産だからなんとかつぶさないように」と考えられるか、「好きで遊びでやってることでしょ?わざわざこんな時にライブやる必要あるの?」って思うかってその人の本当の考えというか資質がばれてしまうんですよね。
 それは行政に限ったことではなくて、どこでもそういう本性がばれる場面がでてきている。組織内とか友達同士でも。

石黒:それって、どこでも、世界中で起きてることなんだろうね。今4月末の時点ですが、東京で緊急事態宣言が出たけど、寄席は開くって言ってニュースになってました。
※結局東京都等からの要請を受けて休業することになったもよう。
不要不急をどう取るのか、落語は不要不急ではない、生活に必要なものだっていう主張をどう受け取るか、まさに落語は文化だと捉えるか、ただの娯楽と捉えるか、この不要不急とはなんだというのを考えさせられる1年だった、いやまだ続いているなぁと。

清水:Star☆Tの活動でも、石黒さんが積み重ねてきた豊田での演劇の活動でも、こういう時期なんだから1年くらい休めばいいじゃんって思う人もいるかもしれませんが、1年休んだら多分元に戻るまでに3年とか5年かかります、あるいはもう元に戻らないかもしれない。こういうものって本当にもろくて、結構簡単になくなってしまうものなんです。10年20年かけて作ってきた実績がここにありますが、それが全く起きてこなかった歴史も想定できる、豊田にアイドルグループがいない今だってあり得るし、豊田に演劇をやるグループなんてなくて、やりたい人は名古屋に行ってる状況だってあり得たわけで、この言葉はあんまり過ぎじゃないけど、やっていることは1つのレガシーだという自負もあります。
 飲食店だって同じで、豊田のまちなかにこれだけたくさん飲食店が出来てるのも1つの文化だと思うんです、これをみんなでちゃんと守るか、別になくなってもいいと思うか。自動車を作ることに比べると見えにくいかもしれないけど、そういうのも文化だ、地域に必要なものだと思えるか。

石黒:でも、まだ正解がわからないというのもあって、例えば医療のことを言われると何とも言えない、医療従事者ががんばっているのに、、、まずは命を守らないと、、、と言われると、ある意味反論できない、もっともだという気持ち、ある種の弱さもある。僕自身もそこにまだ答えが見いだせてないというのが正直なところです。でもそれってとても大事なことで、そこにきちんと言葉が乗せられるように考えなくてはいけないと思います。

清水:もう1つは、この<TAG>のコンセプトにも通じるんですが、地域での情報発信についても改めて考えたというか、マスコミを中心にメディアで得る情報、コロナの状況とか、医療のひっ迫状況とかって全国ニュースと言いつつほとんど東京の情報なんですよね。もちろん国家の対応は重要なので全国ニュース必要ですが、じゃあ実際東海地区や愛知県の状況はどうかと言うと情報はかなり少ないですし、さらに言えば豊田の実際はどうなのか、豊田の医療状況はひっ迫してるのか大丈夫なのか、検査体制はどうなのかってほとんど情報がない。
 豊田市長が結構頻繁に動画を公開していてそれは評価していいと思いますが、まあでも市の発表ですからね、都合の悪いことは言わないでしょうから、いわゆる実際の状況を伝える情報はネットを探してもほとんどありません。そういう情報の非対称性を改めて感じるとともに、そのことが実はおかしいってそもそも思わない状況も変わってないなぁと。

石黒:私たちは戦後生まれですけど、あの戦時中の国民の動きを見てみると、なんであんな風になってしまったんだろうって思うけど、今まさに私たちは当事者だと思うんですよ。だから、何十年後かの人が、この時の状況を見てどう思うんだろうか、正しかったのか間違っていたのか、そういう歴史的な視点を持たないといけないって思っています。

清水:<TAG>2年ぶりの再開って冒頭で言いましたが、2年前ってなんだか隔世の感があるというか、、、。

石黒:私たち、いわゆる空想の世界、虚構の世界を書いて作ってきた人間なんですが、それが現実に起きてしまっているという変な感覚がありますね。

清水:これまでの<TAG>でたくさんの方に話を聞いてきた中で、2000年前後で時代の転換というのがあったんだという実感があって、まあこれは地域とか文化芸術に限ったことではなく、高度成長~バブル崩壊までで一区切りがあったということなんですが、今そこから20年で、またもう1つ大きな転換が起こっている最中という気がします。

石黒:演劇に限ったことではなく、豊田の市民活動って、コロナの前までにがぁーっと伸びてきたと思うし、いろんなおもしろい人材も出てきたと思うんです。豊田の文化高度成長みたいなものがあったと思うんですが、そこにコロナ禍が襲って急ブレーキがかかったようになっている感はある。何か試されているのかなという気がしますね。

清水:現在のコロナの状況はいずれは終息するとは思いますが、だからと言って元には戻らないし、戻ってもいけないと思うんです。

石黒:そうですね、新しい段階に進んでいかないといけない。でも確かにそういう感覚の違いは、個人単位かもしれませんね、行政でも会社でも。

清水:まちづくりが大事って言っても、本当に市民社会を作ることの必要性から言っている人と、お金儲けのために言っている人、よくわからないけどとりあえず言っている人が見えてしまった。まあ、そういう意味でも私たちが言いたいことを発信できる場としても<TAG>を再開させたいなとも思ったんです。

コロナを経たこれから
清水:コロナになって本当にテレビを見なくなってしまったんですが、、、。

石黒:
僕もそうです。

清水:特にニュースとか情報番組とかは見てられないというか。かろうじて新聞はまだとってますが。

石黒:うちも新聞だけはまだとってる。

清水:最初の緊急事態宣言が出た時に一番最初にやったのがクロームキャストを買ったことで、NETFLIXとかAMAZON PRIMEをリビングのテレビで見れるようにした。それでYouTubeとかも見れるので、ニュースとか解説なんかもネットで情報を得るようになったんですが、アルゴリズムのせいで、似たような論説のコンテンツばかり見るようになっていく。例えば政府に批判的な内容のものばかり見てその逆はほとんど見ない、一方でネトウヨ的なものを見ているとその逆は見ない。いわゆる「見たいものだけを見る」状況になっていく。ああこうやって分断って起るんだなぁ、陰謀論を信じる人が増えるのもしかたないのかもって思っちゃいました。

石黒:うちの息子もテレビは見ないんですが、そんな風だと偏るぞって言うんです。実際少し偏ってるなと思う時もあるんですが、テレビだって偏ってるじゃないかって言われると反論できないですね。

清水:そういう意味でも地域に立ち返らないとって思うんです、1人1人が世界の偏った情報を1人で浴びて分断されていくのではなくて。国を変えようって言っても徒労感、絶望感しかない、選挙に行っても何も変わらないようにしか思えないですけど、まだ地域でのコンセンサスを顔の見える範囲で作っていって地域を変えていくとかよくしていくことはできると思えるんじゃないかと。

石黒:確かに、グローバルとか市民社会とか言葉はよかったし、僕ら子どもの頃から理想だと思ってきましたけど、どうもちょっと違うんじゃないか。やっぱり地球単位で見た時に、いろんな文化とか生態系があって、それに合わせた暮らしとか、価値感があるんだなと。そこを1つのものに統一していこうではなく、それぞれを尊重するやり方をしていかないといけないというのが見えてきていると思います。

清水:どうですか、まわりのコロナの状況へのリアクションで、世代的な違いってありますか?若い世代はどんな感じですか?

石黒:世代的な違いはあんまりないかなぁ?ただ、これまで一生懸命活動してきた人がガクンって燃え尽き症候群みたいになっちゃったりとか、逆に引き続き頑張っている人もいるし、そこは個人個人かな。僕は、今ちょっとひと休みって思っている人を否定しないし、それもありだと思いますが、でもなんとなくこの状況も1年経てば、、、と思ってた人も多いと思うんです。でも1年経ってもまだ先が見えないとなると、本格的に辞めようって思う人がこれから増えてくるのかなという心配もあります。

本題 <TAG>とは
清水:ということでやっと今日の本題に(笑)、<TAG>とはという話をしたいと思います。

略 ※TUG~<TAG>の歴史については省略します。動画(33分30秒頃~)又はサイト http://toyotaartgene.com/aboutus.html をご確認ください。

清水:<TAG>を継承したとよたアートプログラムは、2019年度はどうしてもあいちトリエンナーレに振り回されたというか、かかりっきりになってしまって、2020年度でいろいろ検討したんですが、最終的には豊田のあらゆる文化情報を集約発信するのは難しいという結論になってしまって、TAPマガジンサイトは、より狭義なアート(美術)を中心とした情報サイトに落ち着いてしまった。それなら、また行政を離れて<TAG>を復活させようというのが、再開の大きな理由の1つです。

石黒:市はトリエンナーレのために市民アートプロジェクトを作ったわけではないと言うけれども、やっぱりトリエンナーレって大きかったと思うし、豊田と現代アートって、全国的にも有名な豊田市美術館があるんだけれど、なかなか市民には浸透していないという現実もあり、豊田にアーティストもいたけれども、市としては特に支援はしてこなかった中で、とよた市民アートプロジェクトが果たした役割は、一定の効果はあったと思っています。
 ただ、そこで見つけられた人材とかパワーをどう活かしていくかという点は、行政ではなかなか難しいのかなとも思う。やっぱり受け皿になる民間というか人材が必要なんだろうなと、まあ我々も含めてですが、行政に任せているだけではダメだろうなと。もう行政だ市民だと線引きする時代ではないけれど、行政には行政の理屈もあったりして、まだまだ時間はかかるかなとも思いますけどね。

清水:実際、プロジェクトやハイブリッドブンカサイなどを通じて知り合えたアーティストもたくさんいますし、我々のような演劇とか映像とか音楽の人材からのアプローチもとても重要だと思います。

石黒:コロナでちょっと見えにくくなってますが、市民アートプロジェクトに刺激されて参加した人もいるし、参加までしないけど何かやってるなって認識した人もいて、この1年2年で新たに活動を始めたって人もかなりいるんです。そういう人が何人いるってはっきり見えているわけではないですが、感覚的には増えてると思う。そういう意味では環境づくりはできたのではないかと思います。

<TAG>、地域メディア、情報発信
清水:情報発信については、<TAG>からとよたアートプログラムに継承する時にも繰り返し言ったんですが、東京とか名古屋の情報は届くのに、身近な地元の情報こそ届いてない現実、よく言う例えですが、演劇でいうと、下北沢でやっている公演情報は知ってるのに住んでる街豊田でやっている公演は知らない、という状況ってちょっとおかしくないか、メディアを通じて得る、全国という名の中央の情報と自分の街の情報の割合って実際9.8対0.2くらいだと思うんですが、せめて7対3くらいにならないか、各劇団とか団体がそれぞれ発信しているだけではどうしても弱いので、豊田の文化芸術で括って集約して発信するプラットフォームが作れないかって思いでやってきた。
 かつてあったぴあという雑誌の豊田版をネット上でやれないかっていうのが具体的なイメージだった。これって結構労力がいるので、<TAG>の頃でも中途半端だったことは否めなくて、行政ならやれるかもと思ったんですが、やっぱり難しかったというのが現在の状況です。
 ただ、今だから言うんですが、とよた市民アートプロジェクトの事務局でTAPマガジンも担当する安井さんと、昨年TAPマガジンの方向性について話す中で、安井さんはそもそもぴあの豊田版のようなものを作ること自体に必要性を感じてないんじゃないか、世代的には2世代くらい下で、自分が欲しい情報はSNSで各団体やアーティスト、情報発信サイトから得るので、別に集約するプラットフォームは特に必要ないと思ってるのかなぁと。
 それは安井さん個人の理由ではなくて、私たちが「ぴあの豊田版があったら便利だよね」っていうのが通じる世代が上がってきている、そういうのがあった方がいいと思うのが当たり前ではなくなってきているのかなと、そう思ってしまいました。

石黒:TAPマガジンは終わったわけではないので、アートの情報を中心に発信は続けていくんですが、安井さんが実際はどう考えているかはわからないけど、TAPマガジンに関しては、SNSを使いこなしている層、特に若い女性層に届けようという意図はあるんだろうと思います。そういう観点は今まではなかったと思うので、現在の洗練された形は継続してやっていって欲しいと思う。
 ただ、もうちょっと土臭いというか泥臭い情報を求めている人たちもいると思うので、その辺りは分けて考えていった方がいいのかなとも思いますね。

清水:あともう1つ<TAG>を始めた当時と再開する今とで認識が変わってきたことがあって、、、情報発信については、いろんな情報を集約して発信するフォーマットというかプラットフォームを作る必要があると思ってきて、その答えの1つが<TAG>だった。そういうプラットフォームができて、ある程度認知度が上がれば、情報が欲しいけど届いてない人に届くと思っていた。
 でも、去年秋に劇場公開映画のエキストラサポートをしたと言いましたが、エキストラ登録者の募集が、クランクインの10日くらい前からしかできなくて、タイトルや主演キャストもまだ言えない状況で、本当に集まるんだろうか心配で。今回は公式ラインとメールで募集して、告知はチラシも配る時間もないし、新聞等にも出せなくて、サイトとフェイスブックだけだったんですが、ふたを開けたらあっという間に700人くらい集まった。
 今回失敗したのは、登録時に在住地を聞かなかったので、豊田市民がどれくらいの割合かわからないんですが―結構エキストラマニアみたいな人がいて、県外からでもエキストラ出演に来るって人も結構いたんです―市外の人は半分とは言わないけど3分の1くらいはいると思うんですが、でも3分の2の500人くらいは豊田市民だと思う。500人と言う数字が興味のある人すべてに届いたと言える数なのかはわかりませんが、興味のあることなら、ラインとかフェイスブック等のSNSだけでもある程度情報を欲している人には届いてるんじゃないかと。
 で、そこで改めて気づくんですけど、多くの人が興味を持つこと、今回だと全国公開映画で有名人が出るらしい、エキストラで出れば有名人に会えるかもしれない、というわかりやすい情報は現状でも拡散する、それはプラットフォームの問題じゃないっていう事実に行きあたるわけです、まあ当たり前のことなんですけどね。でも、その興味を持つことが、昔と比べるとポピュリスティックになっているというか、みんなが興味のあることは私も興味がある、みんなが興味のないことは私も興味がないっていう現象が加速しているんじゃないかと。

石黒:それは豊田だけの現象じゃないよね、、、。

清水:そうですね、どこでも起こっていることでしょうね。だから、本当にいい公演とかライブがあっても、みんなが興味がないことは、本当にコアなファンは行くけど、多くの人には拡散しない。これって、フォーマットを作ることよりも、もっと難しい問題だと、、、。

石黒:それはやっかいだね、、、情報が届いてないから人が集まらないと思っていたけど、届いてるんだけど来ないとなると、、、考え方を変えないといけないのか、、、。

清水:だから、それこそ今のYouTuber的な思考になっていくというか、再生回数を増やすために、わかりやすくて、過激な内容にエスカレートしていく構図と同じなんですよね。派手ではないけどじっ時間をかけて表現をしているコンテンツをたくさんの人に見てもらうことがますます難しくなっているというか。最終的には、興味をもってくれる人を掘り起こす、育てる、そういう作業からやっていかなければならないというところに行きついてしまう。

石黒:まあ、演劇も映画も音楽も観て聴いてもらってなんぼですから、いかにお客さんを集めるかって考えないわけにはいかないんですが、以前だったらチラシを作って、たくさん撒いて、新聞やフリーペーパーで告知してもらってという数打ちゃあたる精神でやっていたんですが、、、。そういえば、仕事の方ですけど、今年からイベントごとのチラシは一切作らないってことにしたんです。

清水:非接触の時代でもありますしね。

石黒:僕なんかは、まだまだチラシに依存している世代なんですが、でもやってみようと。そうすると、代わりにSNSでどれくらい情報が伝わるのか?って思ってたんですが、今の話を聞くと、情報は届くんだけど、その伝え方というか、どう魅力的に伝えるかにかなり知恵を絞らないといけないんだなぁと。

清水:極端に言えば、何か食べ物でも記念品でも無料で配るって告知すれば、その情報は伝わって人もたくさん集まるんだと思います。でもそれでいいのか、そういう人は多分もらうものもらったら帰っちゃうだろうし。

石黒:
まあでもチラシだって、いかに興味を持ってもらえるようなチラシを作るか考えていたわけだし、同じだと言えれば同じなのかな、、、。

清水:というわけで、<TAG>も見る人が一気に増えることはないとは思いますが、中身は濃いはずなので、じわじわと興味を持つ人が増えていって欲しいと思ってます。そのために文字起こしもちゃんとして、コラムも継続して、このダイアローグもコロナが収まれば公開収録もやりたいなとも思ってますので、どうぞよろしくお願いします。

略 ※<TAG>サイト各コーナーの説明は省略します。詳しくはサイト http://toyotaartgene.com/aboutus.html をご確認ください。

石黒:あとは、特にアート・文化芸術だけにこだわらず、広くまちづくりに関わる人、例えば農業とか福祉とかいろんな分野の人の話も聞きたいって思っています。

清水:本当にそうですね、それこそ次回誰を呼ぼうかって考えるに、今一番興味があることって、豊田のコロナ、例えば医療の状況ってどうなの?ってことなんです。そういう情報って探してもないし、誰に聞いていいのかもわからない。まあ、地元だから情報が出てこないってこともあるんでしょうが、、、。

石黒:今デザイン思考とか、アート思考と言われますが、アートの世界にジャンルってもうなくて、どんな切り口でもそれはアートであると言えますし、だから、街を、生き方を楽しんでいる人であれば、どんどん来てもらって色々話を聞きたいですね。

2021年の抱負
清水:最後は、それぞれの今年度の計画というか、予定の話をできればと思います。

石黒:昨年3本芝居をやって、今年は特に予定はないんですけど、コロナ前からやっていた、演劇部という名前で、上演を目的としない芝居作りというのをやってて。芝居を楽しむ中で結果的に公演をやることになってもいい、でも最初から公演を目的として人を集めたり、劇団を作ってということはしない、稽古という過程を大事にして、結果的に公演があるかもしれないしないかもしれない、という活動を実験的にやってたんですが、それをまた再開して、少ない人数で動き始めているところです。公演がやれればいいかなとは思っていますが、時期は決めずに、1年でも2年でもかけてじっくり芝居を作るのもいいかなと思っています。

清水:豊田の演劇人材はどうですか?まだなかなかコロナの先が見えない状況ですが、、、。

石黒:でも、ありがたいことに、豊田市文化振興財団が、昨年度も演劇祭や「あう つくる はじめる」をやって、人材も関わってという状況があった。そこでいろんな知恵も蓄積されたと思うので、演劇ファクトリーやこども劇場、演劇祭などでその知恵を一段も二段も上げていってもらって、やっていって欲しいと思っています。この1年の知恵の蓄積って大きいし、活かしていかなければならないと思いますし、文化振興財団は文化を絶やさないということを肯定的に捉えて、やってきているなと思います。

清水:私は、本当は1年前から動き出そうと思っていた、劇場作りにいよいよ取り掛かりたいなと、音楽ライブだけでなくて演劇や映像上映もできるいわゆる劇場ですね、それを作りたいと。

石黒:それは本気?

清水:本気ですよ。

石黒:場所の候補はあるの?

清水:まだまだ全然です、探すところから。計画としては豊田のまちなかのつもりです。

石黒:劇場と言えばなんですが、名古屋の老舗の劇場だったナビロフトがなくなってしまって。コロナが直接の原因ではなくて、衛生的なことを保健所と相談する中で、実は劇場を作ってはいけない区域だったことが判明して閉鎖になったという。

清水:新聞で見ました。いわば名古屋演劇の聖地だったのに。

石黒:豊田の演劇人には一番近い名古屋の劇場だったし、実際公演を打つグループもありましたから、残念で。

清水:豊田にそういう場所を作りたいなと思ってます。お互い今年52歳の年ですしね、最前線でやれるのもあと10年かなと思ってるんで。

石黒:本当にそういうこと考えるようになりましたね~、体力的にもガクンときててね。

清水:今まで好きにやりたいことだけやってきたんで、最後は社会的に意味のあることもやらねばとも思ってます。それと映画も久しぶりに作りたいなと思ってる。年齢的なこともあってか、可笑しいけどちょっぴり泣けるホームドラマが作りたいって思ってて、この前田中邦衛さんが亡くなってテレビでやってた「北の国から 初恋」を初めて観たんですが、すごくよかった。倉本聰さんとか山田洋次監督みたいな映画が作りたいなって思ってるんです。

石黒:今年の抱負の話とか、先が見えてきたって話にも重なるんですが、やっぱり原点に戻ってきてて、脚本家になりたいって思った時の思いとか、あの頃作りたいって思ったものって、清水さんが言ったみたいな、あの頃テレビで観てた、笑ったり泣いたり感動したドラマのあの世界で、そういうものを作りたいと思ってこういう世界に入ったので、そこを目指したいなって僕も思うようになりました。

清水:その辺の進捗状況なども、随時ここでも報告したいと思いますので、スタッフになりたいとか興味のある方は言ってください。このダイアローグは月イチくらいでやっていきたいと思ってますので、また次回よろしくお願いします。ありがとうございました。

石黒:
ありがとうございました。

出演者プロフィール
石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作、フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。


【お知らせ】<TAG>2年ぶりに再開します

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

<TAG>Toyota Art Gene は、2013年より「豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク」として、主にインターネット上で情報発信をしてきました(<TAG>第Ⅰ期2013.7~2019.2)。

<TAG>事業は、2019年度より、豊田市が主管する「とよたアートプログラム」に継承され、TAP magazine サイトが公開されましたが、<TAG>でやりたかったことで、TAP magazine ではやれないことができてましたので、この度<TAG>を再開、サイトもリニューアルしました(<TAG>第Ⅱ期2021.5~)。

<TAG>では、以下のコーナーで豊田の演劇・映像・音楽・アートに関する情報を発信します。
○<TAG>ダイアローグ/<TAG>発起人石黒秀和と清水雅人がホストとなり、豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺うトークコーナー。動画公開と文字起こし掲載。月1回程度。
○コラム/石黒秀和、清水雅人はじめ豊田で活躍する人材のコラム、その他レポートや批評など掲載。随時。
○豊田の文化劇術情報/豊田の演劇・映像・音楽・アート各ジャンルの情報を集約している各団体のFacebookページ等リンクしています。

※これまでの対談動画(<TAG>第Ⅰ期 <TAG>通信[映像版]、とよたアートプログラム「この人」)も新しいサイトにアーカイブとしてリンクしています → http://toyotaartgene.com/dialogue.html 
※これまでの、石黒秀和、清水雅人のコラム・レポート、とよたアートプログラム期のインタビュー等も掲載しています → https://toyotaartgene.blogspot.com/

少ない人数での運営のため、ゆっくりとした歩みですが、どうぞよろしくお願いいたします。

<TAG>発起人
石黒秀和 清水雅人

<TAG>サイト → http://toyotaartgene.com/
facebookページ → https://www.facebook.com/toyotaartgene
記事掲載ブログ → https://toyotaartgene.blogspot.com/



2021年5月6日木曜日

【インタビュー】「とよたの新しい博物館」豊田市新博物館基本計画策定委員会委員長の南山大学 黒澤浩教授インタビュー(2020.1掲載)

2023年にとよたに新しい博物館が建設予定!ということで、どんな博物館になるのかについて豊田市新博物館基本計画策定委員会委員長の南山大学 黒澤 浩教授にお話を伺ってきました。

ミュージアムと博物館> 
最近ミュージアムっていう言葉を使うところが多いでしょう?
でもミュージアムと博物館は実はイコールじゃないんです。幕末に日本人が遣米使節とか遣欧使節とか行ってミュージアムを見るわけですよ。それを帰ってきてどういう風に日本語で表現しようかといろいろ考えてできた言葉の一つが博物館だった。さらにそれを広めたのが福沢諭吉なんです。『西洋事情』の中で「博物館」っていう言葉を使ったんです。
だから博物館っていうのは訳語ではなくて、日本人がそういうものを見た時に「一体なんて表現しようか」っていろいろ考えて出てきた言葉なんです。
「博物」は元々は漢文の言葉で「広くものを知る」という意味。だからいい言葉だと思うんですよね「博物館」って。

<野生の思考>
フランスの人類学者でクロード・レヴィ=ストロースっていう人がいて、彼の有名な著書で『野生の思考』があります。
その中に「野生の思考」、さらにそれと対極にある「栽培された思考」っていう言葉があるんですね。「栽培された思考」とは「出来合いのものでそれを学ぶ」っていうことで、その出来合いのものに思考を慣らしてく。
しかし「野生の思考」っていうのはその逆で、「あり合わせのものを組み合わせて何かを作ってしまう」っていう思考です。つまり決まりきったものではなくて、その手元にあるもので何かを作っていくっていうのが「野生の思考」なんです。
でも今の博物館って「栽培された思考」になってしまっていて、出来上がったものをありがたく拝見する、拝聴するという形になってしまっている。でも僕はやっぱり「野生の思考」がいいなと思っていて。新しい博物館でいろんなものを見て受け取ったもので自分の中でいろんなものを組み立てていく、そういう場であってほしいなって思います。



<とよたの新しい博物館>
新しい博物館では、鑑賞者の体験や市民に向けての活動っていうのがメインになってくるかもしれないですね。展示はもちろん重要ですけども、それよりも今度の博物館は「市民がそこで何をするか?」っていうところに重点を置いた博物館になると思います。
「ふるさと」っていうのを基本的なコンセプトにしているんですが、実は豊田に限らず最近は土着の人って少なくて流入人口の方が多いんですよ。外国人も企業関係者で結構いるし、そういう人たちに「ふるさと」っていってもリアリティがない(笑)
だから「ふるさと」と思ってもらえるような、出身はどこであっても「ああ豊田に来てよかったな」って思えるという意味での「ふるさと」。
 基本的な問いかけとして「なんで豊田だったんだ?なぜ?」というところがあって、博物館から出てきた時に「ああ やっぱりだから豊田だったんだ」という風に思ってもらえるようになるといいですね。

お話:
豊田市新博物館基本計画策定委員会 委員長 
南山大学 人文学部人類文化学科教授
黒澤 浩さん

【インタビュー】Our History My TOYOTA とよたのまちなかの人たちにお話を聞きました(2020.1掲載)

 

Kabo. (かぼ)さん:竹生町のゲストハウス。人が集まる、繋がる、笑顔になる空間〒471-0077豊田市竹生町2-4-22 営業時間10:00~19:00 定休日毎週水曜日
TAP:トリエンナーレやW杯など様々なイベントがありましたが、街なかの雰囲気や様子など いかがでしたか?
Kabo:kabo.のイベントでもトリエンナーレツアーをやりました。でも一回しかできなかったんですよ(笑)もっとたくさん開催したかったです。
ゲストハウスにいらっしゃるお客さんの中にはトリエンナーレ目的の方もいましたね。東京から若い男女がきてくれたり、県外の人も多かった。美術好きな方に、トリエンナーレやってますよ、って紹介したら皆さん行ってくれたり。お客さんの反応も良くて、楽しんでいる様子でした。
TAP:これからどんな豊田にしていきたいですか?
Kabo:個人的にはまちなかにミニシアターとか古本屋とか、超マイナーな文化が繰り広げられる場所がもっとできたらいいなと思います。ディープな街が好きなので(笑)
竹生町で昔、それぞれのお家の軒先に竹細工を置く、みたいなプロジェクトをやったことがあって。そういったことを現代のアーティストさんと絡ませて、いろんな新しいことを起こしていったら面白くなりそう。
 街なかを何となく見ていると、竹生町の商店街は、昔ながらのお店とか路地がよく残っているんですよ。そのポテンシャルをぜひ活用したいです。ゲストハウスは、外から入ってくる人のまさにきっかけの場所なので、外の人と豊田との関わりを作っていけるようにしたいです。それが豊田市の魅力再発見や、「豊田はこれ!」って言えるような街の皆さんの誇りに繋がればいいなと思います。



大悟さん:トリエンナーレを盛り上げてくれた、挙母祭りとBBQを愛するまちのお兄さん!豊田中央社労士FP事務所〒471-0024 豊田市元城町3-48
TAP:トリエンナーレやW杯など様々なイベントがありましたが、街なかの雰囲気や様子など いかがでしたか?
大悟さん:トリエンナーレを知る前はアートにほとんど関心がなかったんですが、知人に紹介されて見に行ってみてすごく考え方が変わりました。
日常で「これもアートなんじゃないか?」という場面があったり、アートとは何かを頻繁に考えるようになったんです。豊田会場の作品を見ての感想ですが、国内外から色々なアーティストが来て、豊田市アイデンティティみたいなものを作品として表現してくれたことが純粋にうれしかった。そういう地域の魅力の掘り起こしって外から来る人のほうが上手かったりしますよね。
TAP:これからどんな豊田にしていきたいですか?
大悟さん:豊田の一大イベントの一つである拳母祭りは豊田の人との繋がりを作ったきかっけです。祭りは絶対に大切。祭りがあるから成り立っている側面もあると思う。
ただ、豊田市は祭り「だけ」ではないし、閉鎖的にやっているだけでは成長できない。もっと色々な方面に開かれていかないといけないなと思います。
 個人的な観点ですが、岡崎や豊橋などの東海道の宿場として栄えた地域は文化が受け入れられやすい。それに比べて豊田市は土壌が薄いなと思います。でもそれに対して危機感を持つ人はあまりいない。まずはそれを知らせるところからだと思います。
 1年の歳時記の中にアートイベントが入ってきたらそれはもう成り立っているはず。いきなりアート色の強いイベントをやるのではくて、生活の場面に日常的にアートが入り込んでくるような企画を積極的にやっていったらどうでしょう?そうやって少しずつ街の中に根付かせていったら、市民の意識も変わるのではないでしょうか。



Kevin’s Bar のマスターとママさん Kevin's Bar:豊田市若宮町1-34
まちなかの様子としては、朝早くから駅周辺に若い女性を中心として、多くの人が行き交っていて、すごい効果だなと思いました。
トリエンナーレが始まる前は、豊田でやってどれくらい人が集まるのか心配していたんですが、いざ始まるとすごくにぎわっていたように思います。
これだけ成果があったので、次に繋げていってほしいです。バーの方では、ボランティア終わりの方が利用してくださったりしました。また隣で作品を展示していたので、アーティストさんもお店に来てくれたり、交流もありましたね。


かもめ堂さん かもめ堂:豊田市喜多町4丁目25-5
店頭でもトリエンナーレのポスターを貼って宣伝をしていました。
トリエンナーレ自体は良い取り組みだと思います。ただ興味関心がある人は情報収集しているので文化イベントも色々知っていますが、逆にこれだけ豊田市トリエンナーレをやっていても、知らない人は全く知らない。
発信力は大事だと思います。
豊田市民の文化意識は昔からそんなに変わっていないと思います。トリエンナーレのような取り組みをもっと豊田市でもやって、上手く発信していったらいいのではないでしょうか。



Risoさん Riso:豊田市 西町 2-8 CONTENTS nisimachi
ちょうどクリムト展もやっていたので、街自体はにぎわっていましたよね。県外からいらっしゃっていた人も何人かお会いしました。
トリエンナーレのチラシをもって来て下さる方も見ましたし、期間中は新しいお客様も多かったです。トリエンナーレを期にコラボパンを出させてもらいました。毎月中身の変わる食パンを出していて、ブルーベリーの時期だったのでその色を使って作りました。意外と市役所の方が買って行ってくれたり(笑)
イートインスペースをトリエンナーレ巡りの休憩に利用してくださるお客様もたくさんいました。



マツザワクリーニングさん:マツザワクリーニング 豊田市桜町1丁目55
家族がトリエンナーレのボランティアをやっていたので、色々なお話を聞きました。
私も一部の作品を見ましたし、今年の1月の地域展開プログラムも見に行きましたが、やはり現代美術は難しい所がありますね(笑)
あとで解説をしていただいて、理解しました。
でも見に行くのは好きで、豊田市美術館にも時々行きます。
近くの桜城址公園で時々マルシェが開かれていたりしますので、街の中の新しい活動を身近に感じてはいます。そういった形で、もっとまちの身近なところにアートがあればいいなと思います。東高校の旧校舎の活用もすごくいいことだと思いました。
新しく博物館ができるとのことですが、どうなるのか楽しみです。

【ダイアローグ】特別編 あいちトリエンナーレがまちに残したもの-長者町・岡崎・豊橋の今と、豊田のこれから-シンポジウム(2020.1掲載)



2019年11月22日、豊田市産業文化センターにて
シンポジウム【あいちトリエンナーレがまちに残したもの-長者町・岡崎・豊橋の今と、豊田のこれから-】がおこなわれました。
あいちトリエンナーレの各会場となった地域の方々をおよびし、トリエンナーレをやったあとその地域でどのような取り組みが行われたのかをざっくばらんに話し合いました。

<武藤勇(以下、M)、鈴木正義(以下、S)、黒野有一郎(以下、K)、モデレーター:山城大督(以下、Y)>
Y) アーティストユニット、ナデガタインスタントパーティ(以下、ナデガタ)の山城大督です。
まず、あいちトリエンナーレ(以下、あいトリ)が始まる前までの豊田の活動を紹介したいと思います。僕自身アーティストとして活動していますが、2013年のあいトリに、ナデガタは長者町エリアで作品を展開していました。中部電力の変電所跡地を会場として、中部地方の映画産業を支えた特撮スタジオ『STUDIO TUBE』というフィクションを立ち上げました。そこにオープンスタジオという形でいろんな人たちが参加するという作品を作ったんです。ナデガタはこうやって、人と関わって作品を作っていくスタイルのプロジェクトを13年間35作ほど発表してきました。
今回のトリエンナーレでは新しく、円頓寺・四間道と豊田市が選ばれました。豊田市の皆さんは、僕の感覚としては喜ばれていたように思います。どんなことが起きるのかなあという、わくわくした感じを今年の春ごろから感じていました。
ナデガタと豊田市との関わりは、2017年度から。とよた市民アートプロジェクトというものを立ち上げて市民のアート活動を盛り上げることが出来ないか、というお話を天野さんはじめ文化振興課から依頼されました。その時、天野さんと話したのは、豊田はクオリティの高い美術館があるけれど、意外にも市民と現代アートが関わるプロジェクトがあまりない、という事だった。そこでアートプロジェクトの場所を探すために、半年くらいかけて街を巡ったが、豊田は空き家がたくさんあるわけでもなく、大きなスペースを見つけるのが非常に難しかった。そこで出会ったのが旧豊田東高校という元女子高だった。
このとよた市民アートプロジェクトでは、ナデガタとしては自分たちの作品を作るという意識は全く持っていなくて、協働の仕方を提示し何かを作ろうという呼びかけを行いながら、街と人とアートをつなげる方法を探してきました。トリエンナーレでは僕らが作った拠点のひとつ「とよた大衆芸術センター[TPAC]」があいちトリエンナーレ豊田会場のビジターセンターとなり、カフェ運営や、展示・トークイベントなどにも活用されてすごく活躍したと思います。

M) N-mark自体は今年で20年で、自分たちが見たいアートを見るための活動としてやっています。僕自身もアート作品を作る側で、自分が作品制作をしていくためにはどういう環境が必要なのかなという所が最初のきっかけです。自分が面白いアーティストたちと一緒に発表したり、考える場所を作っていくという趣旨です。
長者町は2010年から会場になっていて、当時僕はあいトリのサポーターズクラブのお手伝いをしていました。鑑賞者に毎週火曜日に集まってもらってやりたいことをミーティングし実行する「火曜日活動」をやっている中で、「夜の長者町探検隊」やトリエンナーレの勉強をする「トリ勉」や、「豆腐ブッダづくり」などの活動が生まれました。
長者町の中では、「街なかアート発展計画チーム」を発足して、街の人が自主的にアートイベントを企画するシステムを作りました。その中で見つけたのが、当時空きビルだった現在のトランジットビルになります。
トランジットビルでアート活動が行われはじめて、今年で7年目になりますが、アーティストがここで写真教室や木工教室を開いたり、ある程度この場所に定着して活動を始めるようになりました。僕たちのギャラリーも地下にありますし、アートを見せるとか、作るだけではなくて、アーティストたちの生活の拠点として存在しています。
今回は初めて長者町であいトリが開催されないということで、「都市農業」をアートに取り入れる試みも含め、物を育てるというキーワードで、一般の人たちと一緒に行う「アートファーミング」を開催しました。

S) 岡崎は歴史のある町で観光都市として栄え、三河ではかなり有名な商店街活性化エリアでした。しかし1990年代以降、ショッピングセンターが移転し、中心市街地が空洞化して空き店舗が増え、何とか活性化しないといけないという話が起こりました。
そこで、当時の市長は「文化エリア」に切り替え街の中心部に図書館や文化ホールを構想し、一大文化ゾーンにしようとしていました。その時に私はちょうどあいトリ開催の話を聞き、岡崎に現代アートを取り込むともっと文化エリアになるのではないかと思い、2008年にギャラリーをオープンしました。
2012年に当選した現市長は当時、箱物での活性化ではなく、街歩きを楽しめる都市を構想し、実際、「岡崎アート&ジャズ2012」という地域展開事業も開催されました。この時、1970年代にオープンしたデパート「シビコ」の4~6階が空いていて会場となりました。正直、岡崎では現代アートはなじみが薄かったので、受け入れられるか心配でしたので、長者町でキャラクター「長者町くん」が好評だった斎と公平太さんにお願いして生まれたのが「オカザえもん」です。2013年のあいトリ時には「岡崎アート広報大臣」に任命され、会場のPRをしました。
第1回目はオカザえもん効果で盛り上がり、これが何か次につながるんじゃないかと期待はしていたんですが、終わってみるとなかなか根付かないのが現状でした。
3年後の2016年、岡崎は市政100周年で、再度のあいトリ開催を期待しました。
そこで、市民と一体型となって盛り上げようということで、2015年に岡崎アートコミュニティ推進協議会という市民活動団体を発足し、アートコミュニティセンターというアート情報基地を1年間開設しました。そして2016年、岡崎で第2回目のあいトリが開催されたが、作品が前回より少なかったですし、市民も2回目は少し反応が鈍かったような気がします。
2回目終了後は、仕切り直してここから再出発しようと思い、市の予算で推進協議会が継続的に文化活動を続けてきました。具体的には元喫茶店だったところをトリエンナーレに関わった人たちと一緒に、カフェをメインにしたアートコミュニティセンター「ポケット」をオープンしつつ活動し、また話し合いの結果、会場として使ったシビコの空きスペースを使って毎年現代アート展をやっていこうということになりました。
そこで、市民の方々にキュレーションの勉強をしてもらって、2017年、市民企画展を開催しました。ただ、市民企画の展覧会は専門家のサポートがあっても、なかなか難しかった。ただし市民には好評だったので、2回目もやろうとなりましたが、そのときはシビコがもう使えなくなってしまったので、違う空き店舗を探して開催し、3回目の今年は図書館(リブラ)ほか3会場で開催しました。
現状の問題点としては、なかなか空きビルが無いことですね。まちづくりが盛んになってくると注目され、展覧会場としての場所探しも大変になってきています。

K) 豊橋は2016年にあいトリに参加しました。僕は水上ビルに住んでいるんですが、そこの1階を建築事務所として建築設計の仕事をしています。2004年に東京から帰省して、それがseboneが始まる年でした。
seboneは、芸術祭が徐々に浸透し始めていた頃で、そういうことにアンテナを張っていた若者たちが水上ビルの建物が面白いじゃないかということではじめた組織です。
このビルは、まさに都市の中で人間の背骨のように用水の上に建っている川の上の建築で、seboneのネーミングがすごくいいなと思いました。その若い子たちというのは街なかに住んでいる子たちだけではなく、外からの子たちもいて、seboneの実行委員もその頃からみんなボランティアです。都市計画系の大学院生もいたりします。岡崎、長者町と決定的に違うのは、場所が先にあって、そこをどう使うか探っていったという点ですね。
毎年アート展をやるっていうことはすごいことで、seboneも当初は、「アートでございます、飾らせてください。」みたいに扉をたたいても、簡単に開けてくれるところはなかったそうで相当苦労したと聞きました。あいトリの時にいろんな会場探しをしたとき、比較的スムーズだったのは、過去にそういった苦労があったからだったと思います。
もう一つ、豊橋の土地柄だと思っているんですが、「子ども造形パラダイス」という市民展がありまして、もう60年ぐらい続いている市民展があります。豊橋の全小中学生が作品を作って、10月の豊橋祭りというイベントに合わせて展示をします。それに家族3世代で作品を見に行く、みたいな風景がありまして。作品を作って展示して、アートを見に行く、みたいな文化が豊橋の小中学生の中には根付いています。なので、アートに対する敷居の低さがもともとあるんじゃないかな、と僕は思っています。
もう一つ、あいトリ開催を引き受ける時に、僕らは「駅デザ会議(豊橋駅前大通地区まちなみデザイン会議)」というまちづくり団体をつくっていて、そこが引き受けることになりました。僕らがまちづくりをしているエリアに会場がすべて入っていたので、愛知県もそこにたまたま目をつけていたみたいです。あいトリに向けて、案内所を一つ作ろうということと、オープニングパーティーを企画しました。これらの企画には豊橋市役所はほぼ関与してなくて、僕らが企業協賛を集めてやりました。アーティストと一緒に材料調達をしたり、会場のお掃除をしたり、トークショーを企画したりしましたね。駅デザ会議のHPにはかかわってくれた方のインタビューをアーカイブとして残しています。基本的にはseboneがあって、かなり耕されていた場所なんです。それがやりやすさに繋がったのではないかと思います。
豊橋会場は1回のみでしたが、あいトリの開催については、今後は2回くくりにしたらどうかと思いますね。

<ディスカッション>
Y) 芸術祭というものが日本全国各地で起こり始めて、あいトリ2010は、越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭ヨコハマトリエンナーレに次ぐ、都市を舞台に開催される第三世代の芸術祭というイメージでした。
その中で、実際にあいトリを見に行った周りの方々と話していて、一番話題になったのが長者町でした。ここ、ほんとに入っていいの?というような場所に入っていったり、町の人との距離が近く感じ、都市部でもこういった関係性が巻き起こせるんだなと思いました。
まずお聞きしたいんですけれども、あいトリという芸術祭が自分たちの町に来て、それを体験してどうですか?例えば長者町の場合、4回目が開催されなかったということも含めてどうですか?

M) 行政がやる行事は公平性を主軸としているので、長者町ばかりが会場に選ばれるわけではないと思います。ただそれをしていると、根付くところがないんじゃないかという気はしています。
僕としては、あいトリはすごく教育的な効果があったと思います。
作品を作る立場の人間としては、どこにアートが根付いていくんだろうっていうところにはあまり焦点が置かれていないので、住みやすいところに住むし、やりやすいところでやる。最初は春日井市でやって、次に名古屋港でやって、そのあとが長者町なんですよ。行政の動きに合わせて、僕らも活動の形態を変えてきていたりするので、そういったものは歴史とリンクしているところの一つかなと思います。

Y) 長者町にはもともとアート要素はなかったんですよね?
M) まちづくりは前からやっていたし、ギャラリーが一つ二つあったので、ロケーションとしてはいい場所だったと思います。名古屋の美術の構造は、郊外に美大があったりしますよね。もうちょっと都心部に美術があってもいいんじゃないかなと思ってたので、長者町を舞台として、やっていけたらいいんじゃないかと思っています。
S) あいトリが終わった後、何か継続されるかというとなかなか難しいのが現状で、行政が予算をつければ、それを使って活動できますが、自主的に民間でお金を出し合って何かをやるかというと、そこまでは動かない。仕切り直しの意味も含めて、2016年に2回目をやれば変わるんじゃないかと思ってやったんですが、やはり厳しいですね。ただ、その原因は何となくわかっていて、康生地区というのはまちづくりが盛んで、こちらは皆さん力を入れてやっているように思いますが、そこにアートが介入するっていうと…ちょっと分断されているかな、と感じます。

Y) 岡崎では、最近デザイン分野での活動など色々広がってきていますよね?

S) 空き家のリノベーションなどデザインや建築の分野ではいろいろ盛んになっているところもありますね。ただそれはあいトリの影響ではなく、全国的なまちづくりの波及効果だと思っています。

Y) ポケットの運営自体は民間出資なのですか?

S) ポケット自体の運営は民間出資なのですが、岡崎アートコミュニティ推進協議会に市から予算をつけていただいたので、その予算で展覧会は開催しています。市の方からは、内容を市民を第一に考えてほしいということで、キュレーション講座を開催したりして市民に参加してもらうような形にしています。

K) seboneの組織とは、当然運営などのやり方も全然違うので、2016年のあいトリを経験して、色々影響を受けました。あいトリの場所のセレクトって、やっぱり既にまとまりのあるコミュニティがある場所に落としていっているような気がします。そうじゃないと、もっと大変だと思う。

Y) 街は生活の場であり、商業の場であり、そして時にはseboneのように転嫁していく場面をもつ街もあり、岡崎はそういう街の変化みたいなものはなかったんですか?

S) アート活動に関しては、あまり変化は感じていませんね。

Y) 武藤さんはそもそも長者町に住んでいたわけではないですね?

M) 名古屋港で活動した後に、全国を行脚するような活動をしていたんですが、そのあと横浜の方に活動ベースがありました。北仲ホワイトという100人くらいのアーティストとクリエイターが入っているビルがあって、当時そこにいました。そういうアートコンプレックスを名古屋でもやりたいな、と思ってたときにあいトリの話を聞きました。
その時に、親しい人が長者町に一つビルを使って、トリエンナーレの拠点ができるということを言っていたので、終わった後、何かできないかということも考えながら手伝っていったという形です。名古屋港でやっていた時もそういう考えは持っていました。

Y) インディペンデントキュレーターは街を盛り上げてくれる起爆剤のような影響がありますよね。愛知県に住んでいると、その地域の人で「ぼくたちの町にもトリエンナーレ来てほしい!」と話す人に出会うこともあります。色々なところで構想を膨らませている人がたくさんいるような気がします。
豊田という街は、隙がないというかそんなに余剰のスペースがないんです。どちらかというと空き店舗があるというよりも、市民活動センターや参合館や交流館など人が集まるための公共施設が整っているんです。なので、自分で場所をわざわざ作らなくていいような印象があります。でもオルタナティブな場所づくりが逆に難しいなとも思います。今は、西町にある「コンテンツニシマチ」という拠点がある地域が盛り上がりつつあります。建築家の方がリノベーションをして飲食店やイベントスペースとして利用されたりしています。
豊田市でのトリエンナーレが終わって、街も市民も盛り上がって、またラグビーワールドカップも並行開催ということで、KiTARAの周辺も整備されました。二つのイベントが終わって、豊田市が今後を考えるタイミングとしては、すごくいい時期だと思います。豊田市の今後について、お三方からアドバイスをお願いします。
K) 僕も今回のトリエンナーレで初めて電車を使って豊田市に来たんですが、今日で2回目です。豊橋にも共通することなんですが、土地感ができるとその場所に訪れやすくなると思います。僕は岡崎のことがすごく気になっていて…地理学的な話になりますが、岡崎ってかなり坂があって、山の手と下町みたいなエリアがあるんです。豊橋は意外と平坦なんですけどね。岡崎でまちづくりが盛んな理由って、その場所ごとでのエリア意識がすごくあるんじゃないかと思います。いろんな街づくりの人がいて、そのエリアを自分たちのエリアとして盛り上げていこうみたいな意識が強い。そういう点では豊田はどうなんでしょうか?

参加者) 豊田市は広いので、はっきりいうのが難しいんですが、合併して加わった山間地は市街地とはまた違う動きをしています。そういう意味では、どこの街も同じだと思うのですが、中心市街地は中心市街地の問題があるし、山間部は山間部の課題があります。でもそこにそれぞれキーマンのような存在や団体がいます。

K) そうですね、結局は人だと思うのですが、昔ながらの土地柄とか人とか、そういった部分にアートが入っていったときに、それぞれの場所で、それぞれのやり方があるんじゃないかなと思います。

Y) こういう活動だけは残した方がいい、ということはありますか?seboneの場合、なぜ16年も続いているんでしょう?

sebone実行委員 森下)sebone実行委員自体は皆さん仕事をしながらされている方が多いです。1年間お祭りみたいな感じで、終わると次は来年に向けて、というサイクルができています。

Y) 確かにもう、そこまで行くとやめるやめない、という話ではなくなってきますよね。

S) 僕が今考えていることとしては、展覧会をやっていくことに意味があるのか?と。芸術に税金を投入するのであれば、もっとアーカイブに力を入れて、そこに行けば常に美術の情報を得られる場所を作ったりしたらよいと思います。その方が地域に根付くし、地域の文化を掘り起こすのにもいいんじゃないかなと思います。
岡崎ではジャズの分野で、内田修さんのドクタージャズスタジオというものがありまして、内田先生が残した膨大な音楽の音源があるんですが、これが非常にレベルが高いんです。一般公開されていて、調べれば調べるほど過去の音楽史が勉強できます。それを整理するのも大変なんですが、そういうアーカイブの整備に力を入れていったらいいと思います。あとは教育面で子どもたちに対する教育プログラムなど、次世代に残すような事業に特化していったらいいと思います。

Y) seboneでは高校生向けの教育プログラムもされていますよね?

K) 高校生に対しての任意参加のプログラム「ドリームウィーバー」という企画です。僕個人としては「お店をつくろう」というプログラムを担当しています。それももう14回目ですが、街なかの小学校に行って工作の授業で作った作品を集めてきて、駅前にある芸術劇場PLATに展示して、街をつくろうというコンセプトです。

Y) 子供のころから作品を展示するっていう習慣がつながっていますよね。子供の頃って作品を作っても選ばれた人しか発表されなかったり、評価されなかったりするので、どちらかというと、作品を発表することに対して恥ずかしがったりする意識がある子が多いんじゃないかなと思います。
そういう意識をつくる前に働きかけることって、あんまりされていない気がします。幼児から小学生まで、絵の勉強ではなく、鑑賞も議論も対話も感受性をテーマにした現代美術を取り扱う教育はあまり無いのではないでしょうか。

S) イベントをやれば結果がすぐ出るじゃないですか。入場者数が何人とか。すごくわかりやすいんですけれども、教育的なものってすごく長いスパンで考えないといけない。だからなかなか税金が出しづらいのも事実ですよね。
でも僕はトリエンナーレに参加して、一過性で終わってしまって何も残らない、という経験をしたので次世代に残す活動をもっと積極的にやっていかないといけないなと思っています。

Y) 武藤さんは、アートファーミングの中でも教育プログラムをされていましたよね?長者町トリエンナーレをやっていない期間も周辺で何か起きていたり、トランジットビルという拠点もつくられたりと。

M) 個人的には展覧会というものに消費的な感じを抱いていて。アートを消費するばかりで、いいのかなあと。どこでアートが生まれて、どこにそのアートが向かっていくのかということをどういうふうに山城さんは考えているのかなと(笑)

Y) え!?

M) ナデガタは割と展覧会自体がアートを生産する場所であったりすると思うのですが。

Y) そうですね。逆に街づくりのような人たちの時間軸で考えたことがないので、今、とよた市民アートプロジェクトで活動をしていて新鮮な感じがしています。1年目はかなり苦しみました。何回やっても、展覧会が終わらなくて、これいつまで続くの?っていう(笑)。でも今は、一回一回にホームラン打つのではなくて、みんなでそれぞれが問題意識を持っていく方法を考えたいなと思っています。

M) ナデガタのようなコンセプトが、アートを生産している気がするのでそういったことを続けていけばいいんじゃないでしょうか?(笑)

(一同) (笑)

Y) 豊田にはいろいろなプレイヤーがいるので、その人たちとタッグを組んでどんどん前に進んでいきたいと思っています(笑)

<会場との質疑応答>
参加者)あいちトリエンナーレをなぜやっているのか、ということをはっきりさせた方がいいと思うのですが。

M) 個人的に、僕らアーティストの視点では、国際芸術祭というものはある意味“災害”だと思っています。その災害でいろいろ振り回され、そのたびに自分たちが強くなっていくので、そういう試練としてとらえています(笑)

S) 芸術祭というやり方がはたして正しいのかどうかという考えです。もっと違うやり方に変化してもいいんじゃないかという、根本的なとらえ方です。芸術祭を始めた当時は空き店舗対策という意味もあったと思いますが、街を活性化する起爆剤としての役割としてだんだんそれも効かなくなっているような気がします。

K) 僕はあいトリや愛知県に対してはポジティブにとらえています(笑)
愛知県には現代アートで地域づくりをするっていうミッションがあって。「あいち文化100年」という100年計画です。だから、今回色々あったからやめる、とかいうことではなくて、あと30回やって決める、まだはじめの10年が経ったところで、アートがまちに出ていくときに色々なことが起こるのは当たり前くらいのスタンスでいいと思います。「文化で立つ」っていうんだから100年くらいやって、はじめて分かってくることもあるんじゃないかな。

Y) 僕も黒野さんの意見にすごく近いです。ドイツのカッセルで5年おきに開催する芸術祭ドクメンタ第二次世界大戦後に始まったものですけれども、文化的復権の意味も含めて展覧会を開き続けています。
作品を見るとすごく難解なものもあるし、ある味方をすれば怒り出してしまような偏った表現をもった作品もあります。そういう議論も含めて、芸術祭が使われているんです。日本の文化芸術はまだここまで来ていないなと思いました。
今回の夏の一件でも、怒る人は怒ってしまうし、対立してしまって、それをつぶそうとしてしまうということは、まだまだ議論の余地があると思います。議論をするために、芸術は有効な手段だと思っているので、そういう議論や葛藤を起こす場としての芸術を、あいトリのようなまだ10年しかやっていない駆け出しの、でも10年続いた芸術祭がこれからもやっていけたらいいな、とは感じますね。

【パネリスト紹介】
武藤 勇 〔⾧者町〕
1997 年名古屋芸術大学造形実験コース卒業。1998 年よりN-mark 共同ディレクター。2010 年~2012 年アートラボあいち運営・ディレクション、あいちトリエンナーレサポーターズクラブ事務局(2010 年)。2012年より⾧者町トランジットビル企画・運営。2017 年よりとよた市民アートプロジェクト推進協議会副委員⾧。2019 年アート・ファーミング ディレクター。
鈴木 正義 〔岡崎市
1999 年より岡崎市康生町の街づくりにデザイナーとして関わり、2005年より都心再生協議会メンバーとして2008 年オープン予定の図書館(りぶら)を中心とした康生地区を文化地区として再生するワークショップ
に参加。その後「あいちトリエンナーレ」の開催にあわせ、岡崎への誘致を目的として現代美術ギャラリーを開廊。2013 年、2016 年の岡崎会場では岡崎アートコミュニティ推進協議会メンバーとして市民活動をサポート。
黒野 有一郎 〔豊橋市
1967 年 豊橋生まれ(水上ビル育ち)武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業、野沢正光建築工房(東京・世田
谷)などを経て、2004 年豊橋へ帰郷、一級建築士事務所 建築クロノ設立。(公社)日本建築家協会 正会員、(公社)愛知建築士会 会員。現在、大豊商店街(大豊協同組合)代表理事豊橋まちなか会議副会⾧、sebone 実行委員⾧ など。
山城 大督(Nadegata Instant Party)
美術家・映像作家。1983 年大阪府生まれ。名古屋市在住。京都造形芸術大学客員教授。アーティスト・コレクティブ「Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)」メンバー。東京都現代美術館、森美術
館、あいちトリエンナーレ2013 など全国各地で作品を発表。第18 回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品受賞。とよた市民アートプロジェクト「Recasting Club」ディレクター。