2021年7月21日水曜日

【コラム】「あぶない少年」石黒秀和(2021.7)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

 オカルトが好きだった。はじまりは、アニメ「バビル二世」である。主人公が持つテレキネシスやテレパシーの能力はきっと自分にもあって、いつか覚醒すると本気で思っていた。空も飛べると思っていた。アニメ映画「幻魔大戦」を観た後、その思いは一層強くなり、実際夢の中ではよく飛んでいた。

 もちろんユリ・ゲラーにもはまった。大きな銀のスプーンを手にすると、今でも曲がれ曲がれと念じてこすりたくなる。矢追純一の本はバイブルだった。中学の時はそれで読書感想文を書き入選も果たした。宇宙人の話で賞をとったのはお前が初めてだと担任の先生にはいたく感心された。

 一時、『ムー』というオカルト雑誌を定期購読し、特集されていたピラミッドパワーを信じてダンボールで人が入れる位のピラミッドを作ったりもした。付録だった念じれば病気が治るというどこかの霊能者の顔写真を大切に机の上に飾り、家族の誰かが調子が悪いとなれば秘かに念じたりもした。

 UFOももちろん信じていた。宇宙人はいないわけがないと思っていた。実家がマンションの4階で、ベランダから遠く連なる山並みと広い空が見渡せたので、暇さえあれば昼夜となく空を見つめていた。怪しい光は意外と何度も見つかり、今思えばそのほとんどが飛行機やヘリコプターだったのだろうが、こちらの呼びかけに応えたのだと何度も胸をときめかせた。そういえば宇宙人にさらわれたような気になっていたこともある。夜中に目が覚めると枕元に宇宙人がいて、UFOに乗せられたような気がしていたのである。おそらく木曜スペシャルのUFO特番でも観た後に、夢でも見たのだろうが、怖くてしばらくは夜中にトイレに行けなかった。雪男や恐竜の生き残りなどのUMAにも夢中になった。水曜スペシャルの川口浩探検隊シリーズは毎回欠かさず観ていた。ツチノコは実際近くの森に友達と探しに行った。ただ、幽霊だけは、今も昔もひたすら苦手である…。

 と、ここまで書いて、自分の息子がこんなだったら、親としては随分心配だったろうなぁと改めて思う。しかし当時の子どもたちは、特に男子は、案外似たり寄ったりではなかっただろうか? 今考えれば世紀末のそういう時代で、テレビやメディアに大いに踊らされてた感もあるのだが、それでも当時のオカルトにはなんだか夢というかロマンがあった気がする。だからこそ、子どもたちは、いや大人たちも夢中になり、その非日常性を日常に取り込み楽しんでいた気がするのだ。

 しかしそんな日本の愛しいオカルトも、1995年の、あの教団の出現によって失われてしまった。さらに僕らは大人になっていた。1999年7月、30歳になっていた僕は、しかしなんの感慨もなく、その月を過ごした。

 コロナ禍の現在、世界は不安や分断の中で、ネットを中心に様々なデマや流言が満ちているという。中にはオカルト的な陰謀論まであると聞く。人は危機の時こそ、信じたいものを信じ、信じたくないものは信じないというバイアスが働くという。しかしそこにあるのは、すでに僕らの好きだったオカルトではない。それはただの悪意のような気がするのだ。

 僕もその後オカルトとはすっかり無縁となり、今ではUFOもUMAも超能力も、およそ科学的でないものは一切信じなくなった。まぁ、それが正常な発達と言えばそうなのだろうが、なんだかちょっと寂しい気もする。しかし、そんな21世紀も20年以上が経った今年6月、アメリカから突然、こんなニュースが流れてきたのである。

 「アメリカの情報機関を統括する国家情報長官室は、軍の内部で目撃情報が出ている未確認飛行物体、いわゆるUFOに関する分析結果をまとめた報告書を公表した。それによると、2004年以降、アメリカ軍などの政府機関では未確認飛行物体の目撃情報が144件報告され、このうち1件については気球と特定されたが、そのほかの情報に関しては中国やロシアが開発した技術の可能性があると指摘しつつも、特定するための十分なデータがなく、正体については依然、結論が出ていないとしている。さらに21件については、物体の推進装置が見当たらないにもかかわらず、高速で不規則に移動するなど、異常な動きを示したとしている」
 なんと、アメリカ政府によってUFOの存在が正式に認められたのである!(※宇宙人や未来人の乗り物と特定されたわけではありません)。

 50歳を過ぎた僕は、この頃、再び、空を見つめている。

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石黒秀和(いしぐろひでかず)プロフィール
1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。


【コラム】「まちづくりって全部地産地消だと思う」清水雅人(2021.7)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

 <TAG>ダイアローグ2021年7月号では、大橋園芸の大橋鋭誌さんをお招きして、農業のお話を聞いた。
※<TAG>ダイアローグ2021年7月号動画&文字起こしはこちら→ https://toyotaartgene.blogspot.com/2021/07/tag-36-20217.html

 その中で“地産地消”という言葉が何回か出てくる。農業からみた豊田というテーマで話せば当然出てくるであろう言葉であり、ダイアローグの中でも言っているが、私も地元での映画作りを始めた当初、取材インタビューなどで“文化の地産地消”というフレーズをよく使っていたこともある。
 これまでも、ダイアローグ収録時も、この言葉を特に深く考えずに使っていたが、収録後大橋さんとの対話を振り返り、また動画の文字起こしをしていく中で、この“地産地消”という言葉が自分の中で少しずつ大きくなっていることに気づいた。
 というわけで、ここでは“地産地消”という言葉を少し掘り下げたいと思う。

 「地産地消」をネット検索してみる。ウィキペディアでは以下のとおり。
地産地消(ちさんちしょう)とは、地域生産・地域消費(ちいきせいさん・ちいきしょうひ)の略語で、地域で生産された様々な生産物や資源(主に農産物や水産物)をその地域で消費することである。
地産地消という言葉は、農林水産省生活改善課(当時)が1981年(昭和56年)から4ヶ年計画で実施した「地域内食生活向上対策事業」から生じた。なお、篠原孝は「1987年に自分が造語した」と、新聞・雑誌等で主張している[1]。しかし、すでに1984年(昭和59年)に雑誌「食の科学」で秋田県職員が地産地消を使用している。またほぼ同時期の、当該事業と生活改善活動について紹介した農水省の公報誌にも地産地消の語句が掲載されている。これらの事実により、このころまでにはすでに、全国各地の農業関係者の間に広まっていた言葉であることが判明した。


 私が「地産地消」という言葉に初めて触れた記憶は定かではないが、多分、職場で保健福祉関連の情報かチラシで「食育」と「地産地消」がセットで載っていた。子どもへの食育の1つとして地元産の野菜を食べましょう/学校給食への利用等々の文脈だったと思う。1990年代中盤の頃だろうか。
 その頃より「地産地消」という言葉は頻繁に聞くようになり、また自分でも使うようになったが、その出自や定義をちゃんと調べたわけではなかった。
 今思えば、貿易の自由化等で外国産農産物等が安価に入ってくることへの危機感として、地場産業を守れ的なニュアンスや農協等を通じた流通から生産者と消費者を直接結ぶ的なニュアンスなど、産業/流通のキャッチフレーズ的なイメージを「地産地消」という言葉に感じていたと思うが、多くの人も同じだったのはないか。

 ちなみに「地産地消」の“地”は何を指していると思われますか?私は、なんとなく自治体くらいの範囲、広くて県内くらいをイメージするが、みなさんはどうだろう。確かに、外国産と国内産を対比するなら、国を“地”と捉えるのも間違いではないが、やはり、地域/地元というと市町村~都道府県くらいをイメージする人が多いのではと思う。

 一方、同じ頃か少し後に“スローライフ”とか“スローフード”という言葉もよく聞くようになった。
「スローライフ」を再びウィキペディアで見ると、
1986年、マクドナルドがイタリアに進出し、ローマのスペイン広場に1号店を開いたが、アメリカ資本のファストフード店に対する反発は大きく、この際に起こった反対運動が、伝統的な食文化を評価するスローフード運動に発展した。やがて食文化のみでなく、生活様式全般やまちづくりを見直す動きに広がった。
日本で「スローライフ」という言葉が使われるようになったのは2001年頃からである。川島正英(地域活性化研究所)や筑紫哲也(ジャーナリスト)らが「スローライフ」について模索していたところ、川島の話を聞いた掛川市の榛村純一市長が「スローライフシティー」を公約に掲げて再選を果たした(2001年)。2002年11月、掛川市で「スローライフ月間」が開かれ、12月のシンポジウム「スローライフのまち連合を結成しよう」には、掛川市、湖西市、岐阜市、多治見市(岐阜)、安塚町(新潟)、立川町(山形)、柳井市(山口)が参加した。 その後、「スローライフ月間」は各地で開催されるようになり、「ゆっくり、ゆったり、心ゆたかに」を掲げるスローライフ・ジャパン(川島正英理事長)が設立された。

とある。
 マクドナルドがスペイン広場にできた時の騒動はかすかに憶えているが、スローライフ運動の発祥ほとんど知らなかったと白状するしかない。私は、なんとなく健康志向の中から出てきた、ちょっとおしゃれな雑誌などで扱われるスローガン的な言葉だと思っていた。オーガニックとかと同じ感覚で。それがごく狭い一面しか見ていないことを知ったのはつい最近のことである。

 もちろん「地産地消」にも「スローライフ/スローフード」にも様々な観点がある。産業、流通、食の安全、健康、生活、思想、、、などなど。どの観点が正しくて、どの観点が間違っているということはない。なぜなら「地産地消」も「スローライフ/スローフード」も生活全般に関わることであり、ほんの100年前までは、それが当たり前の生活そのものだったからだ。
 地元で作られた野菜が地元の八百屋で売られて地元の人が買う/あるいは人口の多くは農民で自分で米や野菜を作って食べていた。この辺りで言えば、川魚を食べることはあっても海の魚介類を食べることは稀だった、何か特別な日に食べる刺身や寿司はごちそうだった。

 昔に還れ!とノスタルジックに言っているわけではない。グローバリズムの推進によって貧しい国々が豊かになっていくことを止めてはいけないし、かつてのように先進国が恩恵を独占することは改善されなくてはならない。地球全体で平和や環境を考えていかなくてはいけない。
 ただ「地産地消」や「スローライフ/スローフード」を雑誌の見出しのように感じてしまうのは、そのような生活が少し前までは当たり前だったということを覆い隠しているからだと思う。
 全国のもの、全世界のものが安価に買うことができる、どこで作られたものか、誰が作ったものかがわからなくても(どんなに過酷な状況で作られたものか知らなくても)、安く買うことができる、それが普通だと思っているからだ。
 牛丼が300円そこそこで食べられるのってちょっとおかしくないか?とは思わず、当たり前だと思っているからだ。

 まずは自明と思っていることを疑い、転換させること。<TAG>ではそのことを繰り返し言ってきた。自らに課すことも含めて。
 そのような意味で、“地産地消”とは、まちづくりそのものだと思う。まちづくりとは生活そのものであり、当たり前と思ってしまっている様々なことを一旦疑い、普段の生活の範囲である“自分のまち”を基盤に考え直すことだと思う。

 大橋さんとの対話の中で「まちづくりって全部地産地消だと思う」と話したが、あまり深く考えないでの発言だったが、今思えば重要な話だったと思っている。
 されに言えば、様々な、当たり前と思い込んでいることを一旦疑い、転換させることは、文化芸術が担っている役割の一つだ、と言うと気負い過ぎだろうか。
 文化芸術の表現には、そのような価値転換をさせる力がある(なければいけない)。Star☆Tの楽曲にだってそんな思いを込めているつもりだ。
 そしてこの<TAG>もみなさんの価値転換を誘発させるメディアにしたいと思っている。

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清水雅人(しみずまさと)プロフィール
2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブを開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作、フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。


【コラム】「豊田(周辺)の映画館上映お勧め作紹介」清水雅人(2021.7)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

※映画支援団体「映画街人とよた」サイトでの記事を転載したものです。

「映画街人とよた」代表の清水が、豊田周辺映画館[イオンシネマ豊田KiTARA]と[ムービックス三好]で観られるお勧め映画を紹介するコラムです。テレビ等でバンバン宣伝しているメジャー作品はなるべく避けたラインナップにするつもりです。
※試写等を見ている訳ではなく、期待度も含めたごく個人的なお勧め作品です、あらかじめご了承ください。
本ページにて月イチペースでお勧め映画紹介しています。

7/13現在イオンシネマ豊田KiTARA及びムービックス三好は通常営業(時短営業なし)です。

7月は、夏休み公開のお子さん/家族向け作品に渋めのラインナップです。メジャーアニメーション、シネフィル感満載アメリカ映画、韓国映画、台湾映画を紹介します。「世界的に評価される監督の~」というフレーズいっぱい出てきます。邦画は来月に話題作がたくさん公開されますね。

イオンシネマ豊田KiTARA  https://www.aeoncinema.com/cinema/toyota/
「竜とそばかすの姫」7月16日より上映
監督:細田守 声の出演:中村佳穂 成田凌 染谷将太
高知の自然豊かな村に住む17歳の女子高生・すずは幼い頃に母を事故で亡くし、父と二人暮らし。母と一緒に歌うことが何よりも大好きだったすずはその死をきっかけに歌うことができなくなっていた。曲を作ることだけが生きる糧となっていたある日偶然にも、全世界で50億人以上が集う超巨大インターネット空間の仮想世界<U>に「ベル」というキャラクターで参加することになる…。
ここで紹介するまでもないメジャー作品ですが、細田守監督作は『時をかける少女』以来『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』とずっと観てきて、はずれなしなのでやっぱり紹介しちゃいます。今回も細田監督の永遠のモチーフ「こっちの世界」と「あっちの世界」が描かれるよう。
期待度☆☆☆☆★

「SEOBOK/ソボク」7月16日より上映
監督:イ・ヨンジュ 出演:コン・ユ パク・ボゴム
余命宣告を受けた元情報局員・ギホン。死を⽬前にし明⽇の⽣を渇望する彼に、国家の極秘プロジェクトで誕⽣した⼈類初のクローン・ソボクを護衛する任務が与えられる。だが、任務早々に襲撃を受け、なんとか逃げ抜くもギホンとソボクは2⼈だけになってしまう。危機的な状況の中、2⼈は衝突を繰り返すも、徐々に⼼を通わせていく…。
「パラサイト/半地下の家族」の米アカデミー賞受賞やNETFLEXでのヒットなど世界で評価され続ける韓国映画の新作。イ・ヨンジュ監督過去作未見ですが、2012年公開「建築学概論」が韓国での恋愛映画観客動員歴代1位と獲得したとのことで、興味ありです。
期待度☆☆☆★★

「ライトハウス」上映中
監督:ロバート・エガース 出演:ウィレム・デフォー、ロバート・パティンソン、ワレリヤ・カラマン
1890年代、アメリカ・ニューイングランドの孤島に灯台守としてベテランのトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)と経験のない若者イーフレイム・ウィンズロー(ロバート・パティンソン)がやって来る。彼らは4週間にわたって灯台と島の管理を任されていたが、相性が悪く初日からぶつかり合っていた。険悪な空気が漂う中、嵐がやってきて二人は島から出ることができなくなってしまう。外部から隔絶された状況で過ごすうちに、二人は狂気と幻覚にとらわれていく…。
サンダンス映画祭でプレミア上映、批評家から高く評価されたデビュー作『ウィッチ』に続く第2作の本作も、全編モノクロ、スタンダードサイズというシネフィル感満載の完成度で各賞受賞している注目作。映画好きにはたまらないスリラー映画。
期待度☆☆☆★★

「1秒先の彼女」上映中
監督:チェン・ユーシュン 出演:リウ・グァンティン、リー・ペイユーロ
郵便局に勤めるアラサーのシャオチー(リー・ペイユー)は、仕事もプライベートもパッとしない。台湾では七夕の日は「七夕バレンタインデー」と呼ばれ、恋人同士で過ごすのが一般的。ある日、シャオチーはダンス講師のウェンソン(ダンカン・チョウ)と出会い、七夕バレンタインデートをすることになるものの、朝起きるとなぜかバレンタインの翌日になっていた…。
80年代以降ホウ・シャオセン、エドワード・ヤンなど世界で評価される監督を輩出してきた台湾映画界で、95年に『熱帯魚』で長編監督デビューを飾ったチェン・ユーシュン監督。しばらく映画から遠ざかっていたが、2013年より長編映画復帰し3作目の本作は台湾のアカデミー賞と言われる金馬奨の監督賞と脚本賞を受賞。
期待度☆☆☆★★

「親愛なる君へ」7月23日より上映
監督:チェン・ヨウジエ 出演:モー・ズーイー、ヤオ・チュエンヤオ、チェン・シューファン
ジエンイー(モー・ズーイー)は、今は亡き同性パートナーの家族である年老いたシウユー(チェン・シューファン)の家に間借りしながら、彼女と孫のヨウユーの面倒を一人で見ていた。そんな折、病気療養中だったシウユーが突然亡くなり、その死因をめぐってジエンイーは周りから疑いの目で見られる。警察の捜査によって彼に不利な証拠が出てきたため、ジエンイーは裁判にかけられる…。
台湾映画をもう1本。『一年之初(一年の初め)』や『ヤンヤン』で世界的に評価されたチェン・ヨウジエ監督の5年ぶりの新作。ミステリアスで重厚なサスペンス調の展開を匂わせつつ、徐々に真実が解き明かされていくと温かな情感溢れる結末まで一気に導かれる本作。こちらも台湾のアカデミー賞と言われる金馬奨で3部門受賞など。
期待度☆☆☆☆★

清水雅人プロフィール
2000年頃より自主映画製作を始め、映画作り仲間を中心に周辺の映画製作団体も統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催。
2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを設立。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユース、映像制作、イベント企画など行う。
2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を結成し、キャストオーディションやエキストラ管理、協賛金事業などをサポート。
2020年、映画「星めぐりの町」を実現する会を発展継承する形で「映画街人とよた」を設立。2021年全国公開予定「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。


2021年7月15日木曜日

【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第36回「農業から見た豊田、農業とまちづくり、農業と豊田の未来」ゲスト大橋鋭誌氏(大橋園芸 代表)動画公開及び文字起こし(2021.7)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。
2021年7月号は、大橋園芸代表の大橋鋭誌氏をゲストにお招きし、農業から見た豊田、農業とまちづくりなどをテーマに、大橋さんのこれまでの軌跡や夢農人とよたの活動についてなどを伺いました。
ゲスト:大橋鋭誌(大橋園芸 代表)
ホスト:石黒秀和、清水雅人 アシスタント:和久田朱里


<TAG>ダイアローグ 第36回「農業から見た豊田、農業とまちづくり、農業と豊田の未来」ゲスト大橋鋭誌(大橋園芸 代表)2021年7月号 動画 
過去の動画/文字起こしはこちら → http://toyotaartgene.com/
<TAG>チャンネル登録もよろしくお願いします → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。
※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。今回より各チャプターに動画の頭出しリンクを付けましたぜひご活用ください。

ごあいさつ[動画はこちら]
清水:みなさんこんにちは、<TAG>ダイアローグ2021年7月号、再開して3回目、通しでは第36回となります。7月になりましたが、石黒さん、近況はいかがですか?変わりなく?

石黒:そうですね、、、コロナの状況も変わりなくというか、良くもならずで、、、。

清水:オリンピックとか緊急事態宣言とか、東京の方はかしましくなってますが、、、愛知県は一応7月11日でまん延防止重点措置は解除されます。

石黒:東京の状況をみていると、こちらもリバウンドしていく可能性ありますね、、、。

清水:私、昨日1回目のワクチン接種をしてきました。

石黒:おっ、早いですね、私も今日職域接種の案内が来て、来週接種します。

清水:私は、豊田市の集団接種に申し込んで、豊田から岡崎に入ったすぐにある愛知医科大学メディカルセンターで打ってきました。

石黒:どうですか?

清水:今日で2日目ですが、打ったところがちょっと痛いですね。でも、発熱するとか体がだるいとかそういうのはないです。

石黒:副反応は2回目の方が出るって言いますからね。

今回のゲスト紹介 大橋鋭誌さん(大橋園芸 代表)[動画はこちら]
清水:再開第1回2回は、現在の豊田市の状況、コロナ禍の中の豊田という話に時間を割きましたが、今回よりゲストにじっくりお話を聞く本来の形で進めていきたいと思います。前々からぜひお招きしたいと思っていました、大橋園芸 代表の大橋鋭誌さんです、よろしくお願いします。

大橋:よろしくお願いします。

清水:そして、本日は大橋さんがやられているお店「おいでん市場」にて収録しています。インサート映像挟んできます、こちら開店してどれくらいですか?

大橋:昨年の12月15日に開店しましたので、ちょうど半年ですね。

石黒:コロナの最中だったんですね、コロナ前に開店してたように思ってました。

清水:他にもいろんな事業やられてるので、ゆっくりお伺いしていきます。でも、その前に、あんまり歳を聞くのはよくないとは思うんですが、同年代の方が来てくれることが多いのでつい聞いてしまうんですが、大橋さんは何年生まれですか?

大橋:昭和50年生まれの45歳です。

石黒:私たちが昭和44年生まれ今年52になる年です。

清水:半世代下ってことですね。石黒さんは大橋さんとの最初の出会いは何ですか?

石黒:大橋さんとは「WE LOVEとよた条例」の会議で一緒になったのが最初ですね。だからもう5年くらい経つのかな?(WE LOVE とよた条例制定は2017年4月 会議はその前に行われていたと思われる)
 ただ、私は寿恵野小学校出身ですが、学校で田植え体験がありまして、どうも大橋さんのところの田んぼでやらせてもらってたみたいで、その頃すれ違っていたかもしれない。私が豊栄町で大橋さんのところは鴛鴨町だから通学路でもあり、遊び場でもあったのでね。

清水:上郷中学校同窓ということですか?

石黒:私は寿恵野小学校~上郷中学校ですが、大橋さんは、、、

大橋:末野原中学校です。

清水:末野原中学校が開校した後なんですね。私は実はちゃんとお話しするのは今日が初めてだと思います。Star☆Tの映画を大橋さんのところのレストランで撮影させてもらったり、とよた市民活動センターのイベントに出店してもらったりしたんですが、直接の担当ではなくてごあいさつする程度で。和久田さんは大橋さんとは?

和久田:私もレクラ・ド・リールでStar☆Tの撮影した時が初めてだと思います。

大橋:その後レクラ・ド・リールに食べに来てくれたり。

和久田:そうですね。それと、いろんなイベントに行くと必ずいらっしゃるイメージがあります。野菜売り場のところに大橋さんの写真が出ているとか。

大橋:おいでんまつりの時に桜城址公園前のころも農園で焼きそば焼いててね、Star☆Tの控室になってたこともあって顔を合わせてますね。

石黒:大橋さんの焼きそばおいしいんですよね(笑)。

清水:ということで、農業の視点から豊田というまちを見ていきたいと思います。私は、実家は石野地区で親は兼業農家で、代がわりの時に農業やめてしまった典型的なパターンなので、農業は全くの専門外なんですが、石黒さんも環境としては、、、

石黒:そうですね、農業をする家庭環境ではなかったですが、でも富良野塾は農業をやりながら脚本家、役者を目指すというところで、富良野の農協にアルバイトという形で入って、2年間農業をやったという感じでした。今風に言えば半農半芸と言うか。倉本聰の教えは、人を演じる/人の生活を書く時に、一番ベースになるのは、第一産業、特に食だということで、そういう意味では農業は原点だと思ってます。

大橋さんのこれまでの軌跡① 就農~事業拡大 [動画はこちら]
清水:まずは、大橋さんのこれまでの人生というか、道のりをお伺いしつつ、豊田の農業の歴史についても聞ければと思うんですが、もともとは稲作ですか?

大橋:そうですね、豊田の平坦地は大体田んぼですね。

清水:豊田の南部、上郷高岡地域は田んぼが多いですよね。大橋さんは高校を卒業してそのまま家業を継がれた?

大橋:まず修業に出ました。滋賀県のタキイ種苗という野菜の種を販売する会社が作った園芸専門学校があって、そこで2年間みっちり寮生活で鍛えられました。当時は戸塚ヨットスクールに並ぶ厳しい学校として有名で(笑)。

石黒:富良野塾も戸塚か富良野かって言われてました(笑)。

清水:家業を継いで農業をやろうと思ったのはいつごろですか?

大橋:それは遅くて、普通に大学受験したんですが、思ったところに受からなくて、さあどうしようかな?って思った時に、親父に「俺、農業やるわ」って言って。

清水:やりたいことは他にあったんですか?

大橋:高校時代にバンドをやってて、音楽関係の仕事につけたらいいなぁなんて淡い気持ちはありましたね。バンドブームど真ん中でしたし、橋の下世界音楽祭やってる永山愛樹君は1コ下でしたし。
 でも、いずれ農業をやることは薄々は思っていたと思います、踏ん切りがついたというか決心したのが大学受験の頃だった。そもそも大学行って俺は何がやりたいんだ?親に金出してもらって遊びたいだけじゃないのか?って思いもありました。

清水:周りの同世代、農家の息子たちはどうだったんですか?

大橋:意外と周りにはいなかったんですよね、私の親の世代で周りは大体兼業農家に変わっていた。製造業について安定した収入を得て、農業は、じいちゃん/ばあちゃん/かあちゃんのいわゆる“三ちゃん農業”でやっているところがほとんどで、いわゆる専業農家は数えるほどでした。近くで言うと豊栄町のお茶農家かうちかぐらいだったと思います。

清水:もともと大橋家は田んぼをたくさん持っていた?

大橋:自分ちの土地は限られた面積ですが、もうやれないという農家から頼まれて段々増えていった感じですね。20年くらい前までは自分で作っているところもちょこちょことありましたが、最近は本当に減りました。そういう人が農協に預けて、農協からうちなどにやらないかと話がくる。

清水:親父さんは、そのように耕作地を広げていくのは計画を立ててたんですか?

大橋:それは、なりゆきというか自然とそうなったんだと思います、農地を貸してくれって頼んで回ったわけでもないですし。耕作地が増えて、それに合わせて機械も増やしていって。

石黒:大橋家は代々農家?

大橋:そうですね、おじいちゃんもその前も農家ですね。

石黒:ずっと稲作ですか。

大橋:そうですね、稲作ですね。豊田市って真ん中に矢作川が流れてて、枝下用水が勘八から猿投を通って市街地の高台を通ってるんですが、その用水が百何十年前にできて、そのおかげですごく水に恵まれた地域なんですね。なので、水が引けるところはとことん田んぼにした、やっぱり米が一番だった。それで水が引けないところが畑をやった。豊栄町も茶畑がありますが、あのあたりも元は白菜や大根などの畑でした。猿投の水が引けない北部の方は果樹をやった。

清水:専門学校を出られて、帰ってきて、就農されて。当時はお父さんと、、、

大橋:親父とおじいさんとおばあさんと私の家族経営でした。

清水:稲作がメインで。

大橋:野菜の苗もやってました。僕が物心つく頃には、苗販売を始めてた。元はうちの親父は60年前にトマト農家になろうとしてビニールハウスを建ててるんです。

石黒:おお、今に通じますね。

大橋:そうなんですよ、半世紀経ってトマト栽培に戻ってきたんです(笑)。親父は夢破れたというか、、、トマトを世に広めたいと思ったんですが、当時まだトマトってそんなにメジャーじゃなかった。

石黒:そうですね、そんなにトマトって食べなかったな。

大橋:今ほどおいしくなかったんですよね、青臭くて。

石黒:だからトマト嫌いって人今だにいますもんね。

大橋:品種改良が進んで、トマトがおいしくなって、糖度も上がってきて、今と昔のトマトはすごい違いますからね。

石黒:トマトといちごが当時とは全然違うイメージですね。

大橋:もうなんでも違いますね、今はピーマンもピーマン臭くない、人参も人参臭くない、甘くなってます。だから野菜嫌いの子供って今はあんまりいないです。
 親父がトマトを5年くらいであきらめて、じゃあ何しようかっていう時に、農協から苗やらないかって言われて、野菜苗を作り始めた。親父も「苗始めたのでは成り行きだ」って言ってましたけどね(笑)。

清水:トマトと言えば、ここにトマトジュースが、、、。

略 ※大橋園芸製造の桃太郎ゴールド100%トマトジュースを試飲させていただきました。動画はこちら

石黒:トマト栽培をしようと思ったきっかけは?

大橋:苗を売ってても「おいしい」って言ってもらえないんですよね(笑)。農家やってて一番うれしいのは、やっぱり「おいしい」って言ってもらえることなんです。野菜の種や苗を売るのって、農業の中でも特殊で、この種を撒くと、苗を植えるとこういうものが出来ますよって言って売って、それが出来なかったら詐欺になっちゃいますから、責任が大きい。出来て当たり前だから誉められることがあまりないんです。そういう厳しい世界でやってきて、農業やりたいって若い従業員も入ってきてくれるようになって、その中でトマト大好きな子がいて、トマトやりたいって言ってくれて。やっぱり人の口に入るところまでやりたいって思って、やることにしたんです。
 トマトって、野菜の中でもスター選手なんですよね、なんか華やかで(笑)。7年位前にハウスを作ったんですけど、トマトって栽培が難しい野菜の1つでもあるんです。どうせやるんだったら難しいことにチャレンジしたい、誰でもやれることはやりたくないっていう気持ちもあって。

石黒:トマトをやりたいっていう従業員との出会いも大きかったですね。

大橋:そうですね。

清水:家族経営で農業に就かれた20代の頃の気持ちというのはどんな感じだったんですか?

大橋:当時よく「農業って楽しい?」って聞かれました。楽しいって、、、100日に1回くらいは思うかもしれないけど(笑)、普段はまあまあつらいですよね。

清水:朝早いとか、休みがないとか、、、。

大橋:僕あんまり朝早くないんですけどね(笑)、朝早くなくてもいい農業をやろうと思って。確かに休みは自分で作らないといけないですけど。でも、20代の頃はがむしゃらに働いてましたね。

清水:辞めようとは思わなかった?

大橋:全然思いませんでした。農業って仕事というより生活そのものっていう感覚があるんですよね、だから辞めるという発想はなかった。それで28歳の時に初めて従業員を雇うんです、僕と同い年で今でも一緒にやってるんですが、それは事業を広げていく上で大きな節目だったと思います。

石黒:その頃のメインは苗ですか?

大橋:米と苗が半々くらいだったんですが、段々野菜苗が増えていった感じです。これも野菜苗を作る農家が後継者がいなくて「この店やってくれないか」って頼まれて増えていった。「やれるかなぁ」なんて言いながら苗のハウスを増やしていった感じですね。
 農業で人を雇うって結構高いハードルなんですよね。給料払っていかなくてはならないし、従業員の生活もあるし。僕なんか始めた当時の給料6万円でしたからね(笑)。父や祖父祖母のところに私が入ってもすぐに収益が上がるわけではないですし、実際儲けは少ないですしね。20代の頃はいかに楽にやれるようにするか、効率を上げるかということばかり考えてました。
 それで、もしこの先おじいさんやおばあさんが介護が必要になったりしたら母親はその世話をしなくちゃならないな、そうしたら父親と僕の2人でやっていかないといけなくなるかもしれない、、、そんな思いから従業員を雇った。そしたら、その半年後におじいさんが脳梗塞で倒れて。おばあさんももう80歳超えてましたから、父親と僕と従業員の3人で回していくことになり、さらに、僕が32歳の時におじいさんより先に父親が亡くなってしまって。でもその頃にはその従業員も仕事覚えてくれてましたから、雇っておいてよかったと。

大橋さんのこれまでの軌跡② 夢農人とよた設立 [動画はこちら]
清水:大橋さんが農業界以外にも広く名前を知られるようになったきっかけは、夢農人(ゆめのーと)ですか?

大橋:そうですね。

清水:夢農人設立は何年ですか?

大橋:2010年ですから今年で11年目ですね。夢農人を作るきっかけは、トヨタファームの鋤柄さんです。豚農家で、豊田青年会議所(JC)をやってて卒業する時に「このままじゃ豊田の農業は衰退産業になってしまう、もっと自分たちでPRしていかないと」という熱い思いを聞いて。「でも俺農業界の人材あんまり知らないから、おまえ誘ってくれ」って言われて(笑)。
 僕は、農業界の団体で4Hクラブ(農業青年クラブ)とか、青年農業士とかそういうところに関わってきたので、そこそこ豊田の農業をやってる人たちは知ってたんですね、それで自分たちのちょっと上からちょっと下の世代の若手農家を集めたのが、夢農人の初期メンバーです。

石黒:最初は何人だったんですか?

大橋:最初は3人です、僕と、鋤柄さんといしかわ製茶の石川さん。そこに広告代理店のルーコさんも加わってもらって。

石黒:ルーコさんが加わったのは大きいですよね。

大橋:農家って下手なんですよね、宣伝とか情報発信とか。口下手な人も多いですし。そういうことってどうしても後回しになってしまう、農作業自体に時間も取られますし。でも、当時ブログとかSNSとか、そういうのが一般的になり始めてた、その波に乗ってという感じでした。

石黒:ルーコさんは声をかけた?かけられた?

大橋:鋤柄さんがJCで一緒だったんだと思います、それで声をかけて、私もルーコの井上社長にお会いした。ちょっと裏話をしちゃうと、井上社長に会った時に「団体を作るのは簡単だけど、継続しないと意味がない。2~3年で辞めちゃうくらいなら初めからやらない方がいい。続ける気はありますか?」ってちょっと意地悪な感じで聞いたら「あります」って言われたんで「じゃあやろう」と。
 後から井上さんに「あの時、大橋さんのことヤクザだと思った」って言われました(笑)、怖かったって。でも最初って肝心ですからね、「続けるって言ったよね?」って言えるというね(笑)。

清水:夢農人で最初に取り組んだことは?

大橋:最初は、中古車・新車販売のユーズネットグループさんが豊田スタジアムで年に数回イベントをやっていて、そこで軽トラ市をやらせてもらいました。そこで、年に4回とか野菜売ったり、たこ焼き焼いて売ったり。そうすると「普段はどこで売ってるの?」って聞かれるんです。それで夢農人の常設店やりたいよねって話になって、設立して2年目の途中か3年目入るくらいの時に、竜神に「夢農人マルシェ」というのを出店した。当時まねき猫さんというパン屋さんの隣に空いた場所があってそこをお借りして、月2回のペースで3年やりました。

清水:全国的にも農家と消費者を直接繋ぐとか、生産者の顔が見えるとか、そういう流れがきている頃ですね。

大橋:そうですね、3年目くらいから、豊田の農業と言えば夢農人だよねって注目度も上がったというか、知ってもらえるようになった実感はありました。

清水:私もその頃に知ったと思います。Facebookで頻繁に夢農人って見るようになった。

石黒:最初の頃は「ゆめのうじん」って言われたりとか(笑)。

大橋:「むのうじん」とかね(笑)。

清水:ネーミングはルーコさんですか?

大橋:ルーコさんがいくつか候補持ってきてくれて、その中にあって「夢農人(ゆめのーと)いいじゃん、デスノートみたいで」って(笑)。

清水:当時はまだ大橋さんはじめ夢農人のみなさんのことは詳しく知らなかったんですが、どんどんイベントに参加したり出店されたりしてフットワーク軽いなぁって印象でした。

大橋:初期の頃は危機感が大きかったですね、このままでは豊田の農業は衰退していく、自分たちだってこの先大丈夫かって。でもそういう危機感を持ってやってる時って強いですよね。

石黒:竜神で出店している頃で夢農人のメンバーはどれくらい?

大橋:25軒くらいですね。

石黒:現在は?

大橋:29軒です。実際40代以下の農家が豊田にどれくらいいるかって言うと100軒くらいですからね。法人化して大きくやっているところには若い従業員もいますが、一種のサラリーマンなので、自分のところのものを売っていこうってなるのは自営でやっている人たちですね。よく出てくる人たちは熱意を持ってやってくれてますね。

石黒:夢農人のホームページを見ると、みんなイケメンなんですよね。大橋さんも田んぼの中でかっこよく写っててね。

大橋:あれ、奇跡の1枚なんですよ(笑)、自分でもあんな自分見たことない(笑)。

石黒:イケメン農家集団みたいな。

清水:そういうビジュアルって重要ですよね。現在の夢農人のメンバーはみなさん豊田市内の農家?

大橋:大方はそうですが、あとみよしの人とか、豊橋の人も1人興味を持って入ってくれてます。一応豊田近郊の農家という括りにしているので。

石黒:夢農人のような団体って他の地域にはあるんですか?

大橋:近郊にはないですね。

石黒:全国的には?

大橋:全国的に見ると、北海道とか熊本とか、若手農家のグループというのはパラパラあります。

石黒:夢農人は早い方?

大橋:結構さきがけだと思いますね。それと、夢農人って多業種なんです。米農家もいれば、お茶農家や花農家もいて畜産もいて。農業っていっても作ってる物でやってることは全然違うので、「よくこれだけの業種の人達をまとめられるね」って言われます。どうやって運営しているのか話を聞きたいって視察もよくあります。
 元々、業種ごとの、例えば米農家の集まりとかは農協であったりしたんですが、そういう垣根はとっぱらっていかないとという思いはありましたね。そうしないと集まらないし、PRするにも「米しかありません」じゃあつまらない、これもあるあれもあるってやった方がいい。

石黒:私が富良野にいた頃も感じたことですが、農業をやっていくのに、農協の存在っていい意味でも悪い意味でも大きくて、農協が認めないと新しいことができないとか、そういう軋轢みたいなことはなかったんですか?

大橋:夢農人みたいなことを始めると、中には「農協に反旗を翻した」っていう見方をする人がいることは確かです。でも僕たちやってる側はそんなつもりは全然なくて、今でも農協との関わりは大きいですし、設立した時に、こういうことをしますって組合長のところに行ったら「おおいいじゃないか」って言ってもらって。どちらかというと、PRとかそういうこと全部農協におんぶにだっこじゃいけない、農協に甘えてたらいけない、自分たちでやれることはやっていくという、そういう気持ちですね。

清水:その後の夢農人の常設店は、、、

大橋:竜神の「夢農人マルシェ」を3年やって、その後に桜町に「ころも農園」というのを開店しました。豊田まちづくり㈱さんからここで何かやらないかっていう話をいただいて、カフェとマルシェをやりました。そこが5年契約で、5年経って継続するかどうかの時に、場所変えてもいいかな、一旦区切りをつけて、考え直そうかっていって閉めたのが2月で、その後にコロナになった。
 去年の4月5月ってあらゆるものが自粛になって、僕もゆっくり考える時間ができて、いろいろ考えたんですよね。それで「やっぱりお店やりたいな」って気持ちがフツフツと沸いてきて。ころも農園閉めた時は、一区切りしてゆっくり次を考えていこうという気持ちだったんですが、夢農人もちょうど10年で「10年やって結局拠点なくなっちゃったのか」なんて思ったりして。
 コロナでみんなの気持ちが沈んでいくのは嫌だったし、農業界も大変なところは本当に大変だった。でも食を支える農業は止めるわけにはいかないし、お店をまたみんなでやりたいという気持ちも強くなって、色々相談してたら、ここは焼き肉屋さんだったんですけど、閉めるみたいだから何かやったらって話をもらって、「やるか」ってなりました。それで昨年12月にここ「おいでん市場」をオープンしました。

略 ※コロナ禍の農業の影響の話。動画はこちら

レストラン経営、その他/普通のことをやろうと思ってない [動画はこちら]
清水:大橋さんは農業、夢農人の活動や出店に加えて、フランス料理店もやられて。

大橋:レクラ・ド・リールは2012年の7月14日に開店しました。大安だったからこの日にしたら、たまたまフランス建国記念日だった(笑)。

石黒:それにしてもなぜフランス料理店を?

大橋:別にフランス料理にこだわりがあったわけではなくて、これも出会いですね。知り合いに「フランスで修業してきたシェフがいずれ豊田でお店やりたいって言ってるから会ってやってくれないか」って言われて会ったんです。それで、会った時に「夢農人のイベントで、たこ焼き一緒に焼かない?」なんてフランス帰りのシェフに言っちゃって(笑)、手伝ってくれてたこ焼きの味がすごくよくなったという(笑)。
 それから、夢農人で作った「このまちうどん」という豊田の小麦と豊田の豚とで作ったうどんの最初の味付けもレクラ・ド・リールの近藤シェフが作ってくれたんです。

石黒:フレンチのシェフにたこ焼きとうどんを作らせた(笑)。

大橋:それで、今のレクラ・ド・リールがあるところは、「タカサキ」というケーキ屋さんだったんです。

石黒:おいしくて有名なケーキ屋さんでしたね。

大橋:僕、若い頃タカサキでクリスマスの時期にアルバイトしてたんですよ。

略 ※大橋さんのケーキ屋アルバイト時代の話。動画はこちら

大橋:そのタカサキさんが閉められる話を聞いたのが、近藤シェフと知り合って半年後くらいで。いい場所だし、それなら僕が継ぎますって、レクラ・ド・リールをやることにしました。シェフと出会って1年後にフランス料理店がオープンしてた。
 開店して5年経って、もうやっていけるねってことで、お店を譲って。だからもう今は彼がオーナーシェフです。

石黒:自分のところの野菜を使う等もあったとは思いますが、まったく専門外のフランス料理店をやろうってよく思いましたね?

清水:これまで話を伺っていると、いい意味でいうと人との出会い、繋がりからいろんなことに挑戦する、悪く言うと行き当たりばったりというか(笑)、フットワーク軽くて、やらない?って言われると、おもしろそうじゃんってとりあえずやってみるというか(笑)。

大橋:その通りですね、僕自身は空っぽなのかもしれない(笑)。でも、近藤シェフの料理を食べた時に「これはおいしい」って思った。フランスには2回しか行ったことないですが、その時に食べた忘れられない料理を、近藤シェフの料理ははるかに凌駕してた。「フランスの星付きよりうまいかも、これはやれるぞ」って。そういう人材には協力したいっていう気持ちはありました。

石黒:トマトの時もそうだけど、そういう人が寄ってくるんですね。

清水:他にはサービスエリアでも出店されてる。

大橋:新東名の岡崎サービスエリアで別会社でやってるのと、前山小学校の近くのメグリアエムパーク店に「丼や 七五郎」というお店を出してます。

石黒:このおいでん市場にも「丼や 七五郎」ありますね。

大橋:七五郎って大橋家の5代前の人なんですけど、墓石に掘ってある名前を見て、この名前いいなって(笑)。

清水:大橋園芸ももちろんやっていて、プラスして夢農人の活動やおいでん市場、その他飲食店など手広くやられてますよね。

大橋:僕の中では、食産業からはブレてないんです。実は大橋家では、僕のおじさん、父親の弟が上郷で「寿し秀」ってお寿司屋をやってて、もう年齢で閉められましたけど、そのきっかけが、うちの父親が弟に「寿司が好きだから寿司屋になれ」って言ってなったという。それくらいなので大橋家は飲食店やることにそんなに抵抗がない。

清水:一般的なイメージは、堅実な農業と、飲食業ビジネスってかなり違う印象がありますね。

大橋:僕にとってはそんなにかけ離れてない。一流のシェフは畑見に行きますしね、食材をゼロから作っているのは農業ですし、飲食業が食材にこだわるのは当然です。
 苗作りは種の品種選びから始まるんですが、こういう野菜を育ててみたいってお客さんとかその野菜を食べる人まで想像して苗を作っていきますから、うちは珍しい苗をたくさん扱ってきたんです。親父もそういうの好きだったんですよね、新しい野菜を作ってみようって。でもちょっと早すぎた、トマトもそうだし、ブロッコリーも愛知県で一番早いくらいに作ったらしいですし。

清水:そういうところはお父さんから受け継いでいるんですね。

大橋:そうかもしれませんね、そういうパイオニア気質というか。「普通のことやろうと思ってないね」ってよく言われる(笑)。

清水:Star☆Tの短編映画の撮影をレクラ・ド・リールでやらせてもらう時も、撮影で場所借りるのって結構嫌がられるんですが「いいよいいよ」って言ってくれて、貸してくれるどころか、エキストラうちの常連連れてきていい?とかノリノリで協力いただいて。

大橋:あれは楽しかったですね(笑)。

豊田の農業/農業からみたまちづくり [動画はこちら]
清水:ここまで大橋さんのこれまでの軌跡を伺ってきたんですが、最後はもう少し広い視点で、豊田の農業、農業からみたまちづくりというテーマで話しをしていきたいと思います。

大橋:豊田市って、トヨタ自動車のおかげもあって、実は特殊な街ですよね。外からは「豊田は景気がよくていいよね」って言われる。

石黒:そうですね、中にいるとわからないですが、他の地方都市と比べるとかなり違うと思います。

大橋:生活レベルは、ちょっと高いかなと思いますし、仕事があるってことはすごくいいことで、これから劇的に人口が減っていってしまうとは考えにくいと思うんです。雇用のある街には安心感もあって、人も寄ってきやすい。そういう人口が減らない状況なら、もっと野菜作っていっていいだろうということで、都市近郊型農業にシフトしていくと思うんです。圧倒的に消費してくれる人の方が農業生産より多いわけで、地域の人においしいものを食べてもらうという農業をやっていきたいと思っています。

石黒:現在の状況というのはどうなんでしょう?

大橋:そうですね、消費するみなさんの意識の問題もあって、地産地消とか、産地には別にこだわらないって方もたくさんいますし、安ければいいとかね。そういう中で買ってもらうには、圧倒的においしくていいものを作るというのが根本ではありますね。そういう意味ではまだまだこれからだと思ってます。
 とにかくおいしいものを食べて欲しいという思いがあって。シンプルにおいしいものを食べると幸せですよね。みなさんに幸せになって欲しい。

清水:地産地消って言葉が出てきてもう20年以上経つんでしょうか、多分にコピーライティング/宣伝とか地元の農家を守れみたいな掛け声的なニュアンスがあったと思います。
 実は私も地元で映画作りを始めた頃に、インタビューなどで「文化の地産地消」ってのをキラーフレーズでよく使ってて、地元の人が地元で映画を作って地元の人達に観てもらう循環を作りたいと。
 元々は農作物について言われた言葉ですが、考えてみたらまちづくりって全部地産地消だと思うんですね。地元の人が自分の住んでいる街をよくしていこうっていろんなものを生み出して、地元の人がそれを消費する、楽しむ、生活するってことですから。だからまちづくりの大元には農業があるって思うんです。

大橋:食について誰か他を当てにしている社会っておかしいって思うんです。

清水:安全保障として考えても重要ですよね。

大橋:都市って、物流が止まったらどうなるのかって考えると、、、。

清水:まさに東日本大震災の時はそういうことに直面した。

石黒:そういう意味で言えば、このコロナの状況も、地産地消について考える機会になったと思いますし、グローバル推進一辺倒から、地域でどう暮らしていくかという意識、SDGsの考え方なども含めて、時代が変わってきていると思います。そういう中で大橋さんが目指そうしていることは、まちづくりというか生き方、暮らし方の1つの方向性になっていくだろうと思います。

清水:単純に言っても、今日食卓に上がるトマトを作った人がここにいるなんてことはなかった。

石黒:地元で作られたトマトジュースがこうやって飲めるというのも最近のことです。農家さんの顔が見えるということもなかったですから、変わり始めていると思います。

大橋:そういう中で、地域の人に向けておいしいものを作っていく、提供していくということを追求していきたいと思っています。

農業と豊田の未来/これから [動画はこちら]
清水:最後にこれからについての話を伺いたいと思います。

大橋:最近若手の子、大学を出た子などが研修させて欲しいって、農業に目を向けてくれる子が増えてきた。そういう人材を大事にしたい、うちで研修受けてもらって独立してもいいし、新しい担い手になっていって欲しいという思いがありますね。僕も45歳になって、次の世代のことをちょっとずつ考えるようになりました。
 自分が持ってる技術はどんどん公開して、自分がしてきた失敗も教えられますし、自分がやってきた分野にはそういう先生はいませんでしたから、自分で模索していくしかなくて、数々の失敗をしてきましたから、そういうことを教えていきたいなと。将来の担い手を作るというのは、夢農人の理念にも入っていますし、農業を魅力ある産業にしていく、次の世代に伝えていくことをやっていきたい。それは、まちづくりにもかかわることだと思います。

石黒:トヨタファームの鋤柄さんに以前お話を聞いて印象的だったのは、自分の子供が農家になりたいって胸を張って言えるようなそういう農業を作っていきたいという話をしてて、ともすれば「お前んち農家なの?」って言われちゃうニュアンスってあったと思うし、特に鋤柄さんのところは養豚でよりそういう思いもあったと思うんですが、農家になることが夢だとか、そう思う子供たちが増えていくんじゃないかって思います。

大橋:かっこいいとまでは言いませんが、なんか楽しそうにやっていれば、農業ってよさそうって思ってくれるかなって。若い頃「農業って楽しい?」って聞かれて「楽しくねーよ」って内心思ってたって話をしましたけど、農業って結構孤独な作業だなって思ってたんです。今となっては晴れた日にトラクターで作業してるだけで「なんて幸せなんだ」って思いますけど(笑)。

石黒:やっぱり農業ってきついっていうイメージがあって、実際30年前富良野では、玉ねぎの苗1本1本手で植えてましたからね。地平線の向こうまで1日中腰を痛めながらやってましたけど、今は機械化も進んで、農作業も大分変ってきていると思いますし、一方で変わらない農業の良さはあると思いますし、うまく組み合わせて、ただただ農業はきついというイメージを払拭していって欲しい。

大橋:20年前と比べても、随分楽になりました。田んぼの中を歩くことがほとんどなくなった。機械がいろんなことを合わせてやってくれるようになって、きつい作業がどんどんなくなってきている。

清水:逆に豊田の農業の課題というか問題点はありますか?

大橋:一番は農地がなくなっていくことですね。もしかしたらこのままバタバタと開発されていってしまうんじゃないかという危機感はあります。うちが受け持っている農地は豊田東インター/豊田ジャンクションの周辺が多くて、どう考えても物流の大拠点なんですよね。だからこの先もしかしたらって思わないでもない。地主さんがハンコ押したらしょうがないしね。

石黒:僕は子どもの頃は豊栄町に住んでましたけど、ここ50年くらいはそれほど風景は変わってない。住宅もあるけど、自然もあって、いしかわさんところのお茶畑もあって、これからも変わらないと思っちゃってますけど、変わっていく可能性も確かにあるわけで。

清水:やっぱり市民ひとりひとりが、自分の住んでる街のことをどれだけ考えられるか、意識できるかということにかかってくる。

大橋:農業が継続的にやっていくためには農家の所得もそれなりにないといけないし。地元のみなさんに買い支えていただいて、地元農業が継続していくって理想なんですよね。そういう意識で買い物もしてもらえるとありがたいなって思います。

和久田:すっかり洗脳されました(笑)、地元の野菜を買おうって思います。

清水:これからの大橋さんがどんなことを仕掛けてくるか、ワクワクして待ってます。

大橋:今この桃太郎ゴールドトマトジュースを推してて、このトマトをうちで作りたいって思ってるんです。

石黒:いいですね~。それこそ、演劇とコラボとかStar☆Tとコラボとか。

和久田:農作業してみたいです。

石黒:いいじゃない、アイドルが農作業してそれを発信する。でも農業って英語でAgriculture(アグリカルチャー)って言って、カルチャーって言葉が入ってるくらいで、もともと農業と文化芸術って親和性が高いものだと思うので、いろんなコラボレーションはできると思います。

大橋:農民画家がいたりとかね。

石黒:日本は特に半農半Xだったわけで、生活そのものだった。

清水:話は尽きないですが、そろそろ終わらなければ、、、。大橋さん何か言い足りなかったこととか、宣伝などあれば。

大橋:そうだ、ここのソフトクリームは十勝から直送してもらってるんです。名古屋駅の高島屋で北海道物産展すると行列ができるソフトクリームが毎日食べられます。

石黒:うちの奥さんは、ここの焼き芋のファンなんです。

略 ※いろいろお勧め商品紹介してもらってます~雑談。動画はこちら

清水:みなさん、まずは、ここおいでん市場に来て、地元の野菜や肉や、魚介類もありますし、全国のおいしいものを買っていってください。

大橋:うなぎもありますよ、すし屋だったおじさんのところで40年以上継ぎ足してたタレをもらっちゃいまして。

清水:夢農人の活動はサイトやSNSで発信されてますね?

大橋:そうですね、Facebookやインスタグラムもありますので、チェックしてみてください。

清水:最後に1冊本を紹介させてください。最近読んだんですが『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』演劇界の重鎮の平田オリザさんと、あいちトリエンナーレでは芸術監督も務めたジャーナリストの津田大介さんの対談本で、地方都市と文化芸術、アートについてのかなり濃い話をしてて面白かったです。
 行政と文化芸術の関わりとか、入門的な内容もあるし、そういうことをあまり知らないとか、行政でそういう分野に携わっている人なんかにも読んで欲しいなと思って紹介します。<TAG>で話していることと繋がる部分もたくさんあるかなと思います。
 ということで、1時間半近くしゃべってしまいましたが、まだまだ聞き足りないこともありますので、大橋さんにはまたお越しいただきたいと思います。ありがとうございました。

一同:ありがとうございました。

出演者プロフィール
大橋鋭誌(おおはしえつし)
 大橋園芸 代表。豊田市出身、在住。高校を卒業後、専門学校で野菜の栽培方法などを学び、21歳の時に代々農業を営む実家で就農。稲作・育苗を中心に事業を拡大。
 2010年に地元の若手農家グループ夢農人とよた(ゆめのーととよた)を設立。若手プロ農家の組織化を目指し、イベント等への出店、地元産食材を使った「このまちうどん」の開発、その他交流会、人材育成などさまざまな事業を展開。また、積極的に情報発信やメディア掲載を進め、地元農業の認知度を拡大した。
 2015年(平27年)に夢農人での常設店舗「ころも農園 蔵カフェ&マルシェ」を開店、2020年2月に契約期間終了で閉店した後、2020年12月には豊田市元宮町に「おいでん市場」を開店。他にレストラン経営やサービスエリア出店なども行う。
夢農人とよた http://yume-note.com/   

石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。
とよた演劇協会 https://toyota-engeki.jimdofree.com/

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作、フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。
豊田ご当地アイドルStar☆T http://star2t.com/
映画街人とよた http://eigamachibito-toyota.net/

和久田朱里(わくだあかり)
 豊田ご当地アイドルStar☆Tメンバー、俳優、ラジオパーソナリティ。豊田市出身、在住。
 2012年18歳の時にStar☆T2期生オーディションに合格し、Star☆Tの入団。2014年よりStar☆Tリーダー就任、現職。2016年からはStar☆Tの運営スタッフも兼務する。
 Star☆Tの活動以外にも、演劇舞台・映像等出演、テレビ番組レポーター出演等多数。
 2021年7月よりエフエムとよた生ワイド番組のレギュラーパーソナリティも務める。
豊田ご当地アイドルStar☆T http://star2t.com/