2021年5月6日木曜日

【コラム】豊田市におけるトリエンナーレ開催の意義/石黒秀和(2019.8掲載)

 あいちトリエンナーレがついに豊田市にもやってきた。3年に一度の国際芸術祭。愛知県では2010年にはじまり、4回目の今年は名古屋市と並んで豊田市も会場となった。あいちトリエンナーレの詳細や意義については他の媒体に委ねるとして、ここでは豊田市トリエンナーレを開催する意義について、あくまで個人的見解ではあるが記してみたいと思う。

 あいちトリエンナーレの特徴の一つは都市型であることが挙げられる。今や世界的にも有名となった瀬戸内国際芸術祭や越後妻有アートトリエンナーレが農山村部を主な舞台にしているのに対し、あいちトリエンナーレは市街地を舞台としている。豊田市でも、2010年から毎年開催されている農村舞台アートプロジェクトなど、農山村部を舞台にしたアートイベントは大小あるのだが、中心市街地一帯を舞台にした現代アートの大規模イベントは、私の記憶ではおそらく初めてではないかと思う(昨年度の地域展開事業は別として)。特に今回は美術館や市民ギャラリーなど公共的な展示場のほか、駅前の空き店舗など複数の日常空間も活用しており、それはまさに街中そのものを美術館にする試みともいえる。

 これにより、私は二つの効果を考える。一つは、より多くの市民に現代アートに触れる機会を提供できる。それによって理解者を増やすことができる(特に現代アートはたくさんの作品に触れることでようやくその面白さや意味が理解できるところがある)。理解できないまでも考える機会を提供できる(この考える機会の提供こそ、現代アートの重要な機能の一つだと思っている)。もう一つは、日常空間にアートが介在することで、それは一種の非日常空間になり、街の景色を変える。つまり、街を少しだけ面白くする。大人の論理で言えばそれによって街を歩く人が増え、経済的波及効果も生まれる。

 現に今回のトリエンナーレでは全体で70万人とも言われる人の動きが予想され、その内どれだけの人が豊田市にもやってくるのか(あえて言えば街中まで来るのか)それは正直分からないが、それでも相当数の人が初めて豊田市を訪れるものと予想される。それも世界中から。市民も改めてわが街を見つめ直す機会となるだろう。そこでなにを発見するのか、それはそれぞれだし、そもそもの街の魅力が試される機会でもあるわけだが、それでも先ずは街を歩いてもらうこと、その機会を得られることにはとても大きな意義があると考える。

ついでに言うと、過去のトリエンナーレのおかげで私は名古屋市長者町豊橋市水上ビルがお気に入りの場所となった。街は歩くことで魅力が現れるものだと思っている(逆に言えば歩いて魅力的な街を目指さなければいけないのだろうが)。豊田市にもそんな「いいね」を覚える市内外の人が増えることを期待している。

 また、このトリエンナーレを開催するにあたり、実に多くの人の交流が生まれている。公式ボランティアは全体で1000名を越えていると聞く。豊田会場でも400名近いボランティアが活躍し、さらに豊田市の場合は、とよトリ隊と呼ばれる公募ボランティアがおもてなしや盛り上げ役として活動しており、オープニングイベントや関連事業でも既存の市内のアーティストや市民が主体的に関わっている。そのほか、作家の作品づくりに直接関わったり、自発的なアートイベント開催の動きもあると聞く。こんなことがこんな場所で出来るんだ、という市民や行政の気づきもあるだろうし、このTAPのように、市内の文化情報を一元化し発信する試みも生まれている。つまり、トリエンナーレが刺激となって、既存のあるいは新しい人材の動きが活発になっているのである。こういった既存文化の活性化、新たな人材の輩出、また、市民やアーティスト同士の交流や融合こそが、実は今回豊田市トリエンナーレを開催する最大の意義であり、同時に、トリエンナーレ終了後、その真価が問われる。

 最後に、これについてはやはり触れざるを得ないだろう。慰安婦像に端を発した一部展示の中止問題である。このコラム執筆中の8月初旬現在、世間はまさに賛否両論で、その是非については今回はあえて問わないが、日本社会のあるいは日本人の抱える負の側面をはからずもあぶり出してしまったのは間違いないようだ。それも芸術の役割と言えばそうなのだろうが、祭りに水を差された感は歪めない。
 また、私が最も心配するのは、この問題によって行政が、芸術に対して萎縮するのではないかということだ。そもそも芸術と行政(あるいは政治)の関わりというものには様々な意見があるわけだが、今回の件で行政が芸術を支援(それはお金という意味だけではない)することに対し、及び腰というか後ろ向きになる事態だけは避けて欲しいと願う。むしろ、これをきっかけに、社会における芸術の必要性や役割あるいはあり方をともに考え、認識する機会になればいいと思うのだが……。
 今回の中止の判断は、私個人としてはやむを得ないことだとも思っている。というか、これは個々の思想の問題でもあり、民主主義や立憲主義の問題でもあり、為政者や権力を持つ者が軽々に発言するべきことではなく、国民一人一人が、もう一度学び直し、議論し、考えるべきことだと思っている。それには少し時間もかかる気がする。
しかし一方、これをただの中止で終わらせてしまっては、なんだかなんの意味もない気もしている。今回の問題を、なるほどそういう風に解決はしていないまでも提示したのかと、ある種明るい知恵でもって乗り越えることができたなら、それこそが芸術の意義であるし、今回のトリエンナーレの本当の意義になる、と思うのだが……。
aichitriennale.jp

石黒秀和(いしぐろひでかず)
脚本家・演出家。豊田市出身。高校卒業後、富良野塾にて倉本聰氏に師事。豊田に帰郷後、豊田市民創作劇場、豊田市民野外劇等の作・演出、とよた演劇アカデミー発起人(現アドバイザー)ほか、多数の事業・演劇作演出を手掛ける。TOCToyota Original Company)代表、とよた演劇協会会長、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長。
ホーム - とよた演劇協会

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