2021年5月6日木曜日

【インタビュー】インタビュー/永山愛樹氏(TURTLE ISLAND 橋ノ下舎)(2019.7掲載)

アジアを中心に活動し、橋の下世界音楽祭を2012年から昨年まで7回開催するなど、豊田をグローバルな発信源としてきたTURTLE ISLAND の永山愛樹さんに豊田と音楽について伺いました。

[インタビュー完全版]
豊田の音楽特集ということで、豊田を代表するロックバンド、Turtle Islandの永山愛樹さんを迎えてお聞きしたいと思います。
日本だけでなくアジアを中心に各地でコンサートをしながら国内外のミュージシャンと交流し、橋の下世界音楽祭を2012年から昨年まで7回開催し、がぜん豊田をグローバルな発信源としてきました。今回は、あいちトリエンナーレを豊田で初めて開催するに際して、初日の8/1の夕刻(16:30開場18:00スタート)から豊田市美術館隣の旧豊田東高校・武道館でオープニングパーティーをプロデュースしていただいています。出品作家紹介だけでなく、いつもの盆踊り以上に永山さんを中心に熱を入れて会場構成もしてもらっています。
さて、まず永山さんたちが橋の下世界音楽祭を始めた切っ掛けからお願いします。

永山 東日本大震災が切っ掛けでした。最初は物資を集め被災地へ持って行ったり、音楽仲間たちが代わる代わる瓦礫の撤去などの作業に行きましたが、その後、原発問題など皮切りに様々な問題が膿のように出てきましたよね、そしてどんどん人々が分断されていくのに危機を感じました。イデオロギーや善悪の裁きではなく、何かそんなもの超越した生まれ変わるための生命の祭りみたいなものをやらなければと思うようになりました。
そしてまず、そもそも生まれた時から僕らはすでに西洋の基準や価値観にはめ込まれていたと思うのですけれど、まず土着的な文化や考え方とか民族性とか、生活・感覚、要は細胞やDNAが喜ぶようなものやことを見つめ直さなければならないのではないかと。で、メインストリームに流れる大半の浮き輪のついたものでなく、僕らの勝手な独断ですが、地に足の着いたというか、地を這っている音楽や芸能の今昔、日本、アジア周辺、東洋の音楽祭をやろうと。それも音楽以外の他の文化的なもの、歴史もひっくるめて現代アジアのお祭りをやろうとしました。会場作りも河川敷の竹を大量に刈り出し、ゴミ(廃材)を大量に集め橋の下の河原に街を作っていくのです。そもそもあの規模(推定のべ2万人)で入場料は自分の価値観でそれぞれ考えて決めてもらう投げ銭式で運営するなんてバカな事例は他に無いだろうがあえて行いました。実験です。信じてみたかったんです。

だんだん大きくなってきましたよね。人の生きている生活の只中から、身体感覚として音楽もダンスも生まれるが、そんな原点が見えるようなアナーキーで開放的な雰囲気で。

永山 音楽って歴史上生まれて途中からビジネスになってしまうけど、もともとは生活の中から発生してきた歌や音楽、これが原点なわけですもんね。
そして橋の下の幻の町には鍛冶屋、草履屋、和紙、キセル木地師、などなどの職人街、また全国から集まる参加者が海水を持ち寄り、塩炊きする人達がいたり、そしてその塩を使って麹屋が翌年味噌にして持って来ようとか、さらには農家の人たちが味噌作りや、農業などなど様々なワークショップやトーク、そしてイノシシ、ハクビシンなどの獣の解体して料理とかも毎回やってくれているけど子どももみんな驚いていて大人気で。だから、そこらの興行としての音楽フェスとは完全に似て非なるものでして、橋の下でやっているのはお祭り。ただのお祭り騒ぎではなく、本当のお祭り。現代社会に対する自分たちからの返答であり、実験でもあるんです。こんな風に生きてもいいんだ、生きれるんだ、こんなことできるんだ、という各地民間同士のビジョンの共有や情報交換するそんな実験的な場でもあるんです。

有名無名問わずいろいろなひとが様々にいるところが面白い。

永山 地元のヤンキーの先輩から、家族兄弟親戚、パンクス、サラリーマン、農家、子供、お年寄りに、中学の先生に役所の人間などなど、とにかくこんなに雑多で多様な客層のイベントは他にないと思います。
どこかに居るはずなんだろうけど、街中では普段なかなか見ないあんなに多様な種類の人々が一堂に集まってくる。それはどんなふうでも存在してていいんだという会場に流れる雑多で寛容な空気感、居心地が良く楽しいからなんだと思います。

海外の出演者はタートル絡みでの招聘ですか?

永山 バンドで海外ツアーをした際などに共演し繋がっていっています。

でも今年はなぜか休みましたね。昨年も、コンサート中に全国から来た観客に向かって「オマエら、帰って自分たちのところでやれー」と言ってましたね。

永山 単に日程的にも会場側との都合も合わずで。ということで、今年は休憩です。やりたくてやらないとダメだし。使命感になってはダメですよね。仕事じゃないから、だからこそよく考え大事にやってかないと。ライフワークというのか、、
限られた人数で、設営も一ヶ月前からやっていて、だんだんやりすぎて疲れてしまって・・・。いろいろ細かいことや問題も気にしすぎたり、人が多くなりすぎていろいろ大変になり自分らが遊ぶ余裕が無くなってきてイライラしてきたりと、、でも後々冷静に考えるとああ見えてもあの規模であのやり方で大したルールも無くやっときながらかなり秩序は取れているんですよね。自分らに余裕がなくなっていただけで、、
現代社会が整いすぎて、皆与えられ慣れ過ぎているから何も考えなくなってきているけど、そもそも世界は誰かから与えられているものでなく、自分たちが創っているんだぞと、認識しないと。俺たちも若い時は何かにつけて文句ばっかり言っていたけど、自分たちが主催側に廻ると大変さが分かる。だが、意外にルールを作るより、来ている人たちに意識を持たせる方がいい。この祭りがいつ無くなろうとこっちは構わない。この場所を持続させたいんならみんなで努力しよう、考えよう。言っとくが、我々はお客様にサービスするためにこの祭りをやっているわけではないんだとははっきりと言わせていただきたい。河川敷のように水もトイレも電気も無い、インフラが何も無いところでわざわざこんな事やるなんて面倒くさくて誰もやらない。でも何にも無いところから原始的に始まっていくという行為を体験すると、見える世界は格段に変わると思います。。

音楽を原点にしながらそのように橋の下世界音楽祭をやっている傍らで、自分たちの原点として民家をリノベーションして、本拠地として様々なコンサートをしていますよね。

永山 橋ノ下舎ですね。アコースティックライブ、民謡、三味線の教室、映画上映会、親子リズム教室、座談会、ワークショップ、その他会議などなど様々な方々が公民館のように使用している。いわば橋の下(祭り)と橋の上(日常)の繋がる場所。僕は<アウトサイダーズ公民館>なんて呼んでいる。

さて、その永山さんが出てきた子どものころの豊田はどうだったんですか?どういうふうにやっていたのか?

永山 何も無かったです。豊田にライブハウス、クラブもレコード屋もなかった。数少ない音楽雑誌とか、われわれは昭和51年生まれのロックブームの残り香の時代で、近所の兄ちゃんのカセットとか借りてきたりとか、隣町とか名古屋のレコード屋に出かけて数少ない情報を探し出し飢えるように音楽を聴いた。そうこうしているうちに、ちょうど30年前、中学生の時にパンクバンドを組んでいたんだが、20代の先輩たちが駅前でゲリラライブをやろうということになった。当時、各中学ごとにパンクバンドが結構あって、発電機や機材持ち寄って「炎天下GIG」という名でマクドナルドの隣あたりでやり始めた。今と違って許可を取ろうとしても全く相手にされない、警察来るはヤクザ来るわで大変だったが、時代時代で主導するやつも代わりながら20年ぐらいやってたんじゃないですかね。何もないおかげで自分たちで何でもゼロから始めてきたから、その延長で橋の下まで繋がっているのかも知れない。手撒きのチラシと口コミだけで、自分は駅前にたむろし半分住んでいるみたいなものでしたが、ライブをやるとずいぶん客は来ましたね。現在でもそのまま続いているバンドもたくさんある。きれいな再開発の街になってきて僕らパンクスや暴走族などは完全排除対象だったですよね。当時はもっといろんな人種がもっと居た。街には人が居て、そこから街が出来ていくはずだが、今はハード面から作りすぎちゃうから、まるで中身の無いからっぽな天ぷらCITYですよね。駅前再開発会議に出席した時、死角や路地をなくし不良や浮浪者が溜まらないようなまちづくりをしなきゃとか、いい大人達が真剣に話しているのを見て笑ってしまった覚えがありますが、果たしてそれは良いことなのかな?と、疑問に思いました。全てが画一化されある一定ラインをクリアしていないと存在してはいけない世界ってどうなんだろう?街から逃げ場やゆとりがなくなると逆に酷い犯罪や祟り神のような存在が増えるんじゃないか?とよく思います。今はまたいろいろ変わってきてるのですかね?そうあってほしいです。新とよパークとかは面白いですよね。ああやって街に住んでる若い人らがガンガン変えていけばいいんですよね。自分たちの居場所は自分たちで作ればいいんですよ。

矢澤さんたちが始めた「トヨタロックフェス」は2007年から12年間やってきたが、一回目からバンドとして出演している。彼は足助出身で若い頃はインドなどを旅したり、当時は面識なかったが、20代後半あたりに初めて出会い熱い未来を語り合ったりなんかもしたが、今思えばあれからあっという間だった。確実にいろんなことが変わってきている。少なくても自分たちの周りは。

豊田の発信力としては美術よりも音楽の方が先行していますね。今回はあいちトリエンナーレの初日にオープニングイベントで地元の人たちと足助音頭、挙母音頭なども含めやってもらいますが、いわゆるローカルにしてグローバルという「グローカル」という言葉がありますが、そんな印象があります。

永山 自分たちは音楽で東京に出ようなんて思ったことは一度も無いんですよ。ここに居ながらでも世界にでも何処にでも出れると思っている。土橋駅から電車乗って世界に行くんだと。豊田は豊田市駅周辺こそ都会化しているが、基本、田舎だし、田んぼがあって空が広いのが良い。で、土と空と風と水に触れるのが大事で、川原に居るとアドレナリンが出る。アジアの田舎を旅するとよく見る光景、大抵夕方になると街中でもそこら中でボーッとしている。太陽とか月とか、そういったものを中心に生きている感がある。それが野生本来の姿だと思う。

あえて橋の下という水辺でやるのは?

永山 山の中の音楽イベントはよくありますが、そうでなくて街の、日常の延長でやりたかった。でも、風が吹いて、水があって、土の上で何も無いところが駅から10分くらいのところに奇蹟的にある。あと人類のルーツなんて言ったら河原乞食みたいなもんじゃないのかと思う。歌舞伎など芸能は橋の下から発生していると言われていますし。河原とか、橋の下って実際には違うんだけど、治外法権的な感じあり、社会の船底であり避難所であり、人類の故郷のようなところだと思うんです。だから人々が開放される。現代の祭りをやるには最高の場だと思う。

今後は?毎年、やらないと言っているけど。

永山 東北の震災からの流れで毎回今回で最後かもというくらいのつもりで死ぬ気でやってきました。大人になって仕事でもなくそこまでやることなんてなかなか無いですよね。でもこの感覚を経験したか経験してないかでは全く人生の価値が違います。橋の下世界音楽祭は実際には神事ではないのだけど神事くらいの気持ちでやっています。形や規模などはどうなっていくのかはわかりませんが、どうあれ祭りは続けていきたいと思っていますが、次のサイクルに入っていくのかなとは思います。年に一度自分たちの魂を解放して、心の洗濯して、生のコミュニケーションを取り、未来に繋いでいく実験の場ではあり続けたいですね。なんだか分からないけど、会場を歩いてるだけで泣けてきちゃうことがたくさんあるんですよ。
TURTLE ISLAND - タートルアイランド
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橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA 2018

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