2021年7月21日水曜日

【コラム】「あぶない少年」石黒秀和(2021.7)

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 オカルトが好きだった。はじまりは、アニメ「バビル二世」である。主人公が持つテレキネシスやテレパシーの能力はきっと自分にもあって、いつか覚醒すると本気で思っていた。空も飛べると思っていた。アニメ映画「幻魔大戦」を観た後、その思いは一層強くなり、実際夢の中ではよく飛んでいた。

 もちろんユリ・ゲラーにもはまった。大きな銀のスプーンを手にすると、今でも曲がれ曲がれと念じてこすりたくなる。矢追純一の本はバイブルだった。中学の時はそれで読書感想文を書き入選も果たした。宇宙人の話で賞をとったのはお前が初めてだと担任の先生にはいたく感心された。

 一時、『ムー』というオカルト雑誌を定期購読し、特集されていたピラミッドパワーを信じてダンボールで人が入れる位のピラミッドを作ったりもした。付録だった念じれば病気が治るというどこかの霊能者の顔写真を大切に机の上に飾り、家族の誰かが調子が悪いとなれば秘かに念じたりもした。

 UFOももちろん信じていた。宇宙人はいないわけがないと思っていた。実家がマンションの4階で、ベランダから遠く連なる山並みと広い空が見渡せたので、暇さえあれば昼夜となく空を見つめていた。怪しい光は意外と何度も見つかり、今思えばそのほとんどが飛行機やヘリコプターだったのだろうが、こちらの呼びかけに応えたのだと何度も胸をときめかせた。そういえば宇宙人にさらわれたような気になっていたこともある。夜中に目が覚めると枕元に宇宙人がいて、UFOに乗せられたような気がしていたのである。おそらく木曜スペシャルのUFO特番でも観た後に、夢でも見たのだろうが、怖くてしばらくは夜中にトイレに行けなかった。雪男や恐竜の生き残りなどのUMAにも夢中になった。水曜スペシャルの川口浩探検隊シリーズは毎回欠かさず観ていた。ツチノコは実際近くの森に友達と探しに行った。ただ、幽霊だけは、今も昔もひたすら苦手である…。

 と、ここまで書いて、自分の息子がこんなだったら、親としては随分心配だったろうなぁと改めて思う。しかし当時の子どもたちは、特に男子は、案外似たり寄ったりではなかっただろうか? 今考えれば世紀末のそういう時代で、テレビやメディアに大いに踊らされてた感もあるのだが、それでも当時のオカルトにはなんだか夢というかロマンがあった気がする。だからこそ、子どもたちは、いや大人たちも夢中になり、その非日常性を日常に取り込み楽しんでいた気がするのだ。

 しかしそんな日本の愛しいオカルトも、1995年の、あの教団の出現によって失われてしまった。さらに僕らは大人になっていた。1999年7月、30歳になっていた僕は、しかしなんの感慨もなく、その月を過ごした。

 コロナ禍の現在、世界は不安や分断の中で、ネットを中心に様々なデマや流言が満ちているという。中にはオカルト的な陰謀論まであると聞く。人は危機の時こそ、信じたいものを信じ、信じたくないものは信じないというバイアスが働くという。しかしそこにあるのは、すでに僕らの好きだったオカルトではない。それはただの悪意のような気がするのだ。

 僕もその後オカルトとはすっかり無縁となり、今ではUFOもUMAも超能力も、およそ科学的でないものは一切信じなくなった。まぁ、それが正常な発達と言えばそうなのだろうが、なんだかちょっと寂しい気もする。しかし、そんな21世紀も20年以上が経った今年6月、アメリカから突然、こんなニュースが流れてきたのである。

 「アメリカの情報機関を統括する国家情報長官室は、軍の内部で目撃情報が出ている未確認飛行物体、いわゆるUFOに関する分析結果をまとめた報告書を公表した。それによると、2004年以降、アメリカ軍などの政府機関では未確認飛行物体の目撃情報が144件報告され、このうち1件については気球と特定されたが、そのほかの情報に関しては中国やロシアが開発した技術の可能性があると指摘しつつも、特定するための十分なデータがなく、正体については依然、結論が出ていないとしている。さらに21件については、物体の推進装置が見当たらないにもかかわらず、高速で不規則に移動するなど、異常な動きを示したとしている」
 なんと、アメリカ政府によってUFOの存在が正式に認められたのである!(※宇宙人や未来人の乗り物と特定されたわけではありません)。

 50歳を過ぎた僕は、この頃、再び、空を見つめている。

過去のコラムはこちら → http://toyotaartgene.com/column.html

石黒秀和(いしぐろひでかず)プロフィール
1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。


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