2021年8月26日木曜日

【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第37回「アートは”遊び”から生まれる~アートの日常化を目指して~」ゲスト磯村美沙希氏(office codonart 代表)動画公開及び文字起こし(2021.8)

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豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。
2021年8月号は、若林西町にあるアトリエVIPを拠点に活動しているoffice codonart代表の磯村美沙希氏をゲストにお招きし、磯村さんのこれまでの軌跡とともに、アートと子ども、遊び、アートの日常化などをテーマに、office codonartの活動について伺いました。
ゲスト:磯村美沙希(office codonart 代表)
ホスト:石黒秀和、清水雅人

<TAG>ダイアローグ 第37回「アートは”遊び”から生まれる~アートの日常化を目指して~」ゲスト磯村美沙希氏(office codonart 代表)2021年8月号 動画 
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1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。
※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。各チャプターに動画の頭出しリンクもありますのでご活用ください。

ごあいさつ [動画はこちら]
清水:みなさんこんにちは、<TAG>ダイアローグ2021年8月号です。先月は、大橋園芸の大橋さんをゲストにお迎えしたんですが、さすが知名度の高い方ですので、再生回数、文字起こしブログの閲覧数もいつもより多くて、100超えしててありがとうございます。
 <TAG>再開して4回目ですが、豊田とその周辺地域の文化芸術に関することと言いつつ、過去3回はコロナのことや農業のことなど直接関係ないテーマを話してまして(笑)、でも、いよいよ今月は、文化芸術ど真ん中の方をゲストにお招きしました。紹介します、今月のゲストoffice codonart代表の磯村美沙希さんです。

磯村:よろしくお願いします。

清水:私は、磯村さんとは初めましてなんですが、石黒さんは?

石黒:僕は、今年3月のとよた市民アートプロジェクトでやったまちなか芸術祭の時に、磯村さんが実行委員をやられててそこでお会いしたのと、自分の職場の関係でもちょくちょくお会いしてます。

清水:今日は、磯村さんが活動の拠点にされているアトリエVIPで収録させていただいています。若林西町で、元パチンコ屋さんの建物なんですね?

磯村:そうです、お借りして活動しています。

清水:私も、アトリエVIPの取り組みをとよたデカスプロジェクトの受賞企画として認知はしてましたが、この場所には初めて来させていただきました。

磯村さんのこれまでの軌跡① 子ども~高校時代 [動画はこちら]
清水:まずは、磯村さんの人となりをお伺いしたいんですが、磯村さんは出身はどちらですか?

磯村:出身は刈谷です。

清水:アートとか、芸術に興味を持ち始めたのはいつごろから?

磯村:ものごころついた時には好きだったというか、実家で父が尺八の教室をやってまして、興味というか、日常の中に音楽があったというか。

清水:おー、そうなんですか。お父さんは尺八奏者だった?

磯村:そうですね、奏者であり、指導者でした。

清水:尺八のこと聞いちゃうんですが、尺八ってひとりで演奏するものですね。

磯村:でも合奏などもありますよ。演奏はひとりでするものですけど。

清水:雅楽楽器ではないですね、、、尺八の発祥って、、、

磯村:元々は仏教の中でも普化宗という宗派の僧がやっていたものらしいです。

清水:かごをかぶった虚無僧が吹いてるイメージですね、時代劇などで見る、、、

磯村:そうです、虚無僧が托鉢の時に尺八を吹いていた。

清水:尺八のことばかり聞いてすみません、それじゃあ小さい頃から家の中で尺八の音がしてて、、、

磯村:大体寝る時間頃に教室をやっていたので、子守歌代わりというか、今でも尺八の音を聞くと眠くなっちゃうんですが(笑)。
 また、親戚でも音楽をやってる人がいたり、親は音楽を聴くのも好きだったので、クラシックのコンサートに連れて行ってもらったり、刈谷市美術館が実家から徒歩で行けたので、小さい頃から父との散歩コースでした。なので、劇場や美術館はとても近い存在でしたね。

清水:学校の部活もそういう関係に?

磯村:部活は全然関係ない被服部でした(笑)。でも、習い事でクラシックバレエと少年少女合唱団に入って活動してました。

石黒:少年少女合唱団はどこの?

磯村:名古屋です。

石黒:少年少女合唱団って各市町村にあるんですか?

磯村:いや、必ずしも全てにあるわけではないと思います、立ち上げた先生の場所の市町村名を冠した団が多いということだと思います。

石黒:刈谷にはなかったんですか?

磯村:今はありますけど、私が小さい頃にはまだなかったです。母のつてもあって、名古屋の合唱団に入って、姉と一緒に通ってました。

清水:そして、大学は専門の道へ進まれた?

磯村:いや、姉は、音大の声楽科に進んだんですが、その姿を見て「わぁー、大変そうだ」と思いまして(笑)。

石黒:芸術系の大学に入るのって大変だって言いますよね。

磯村:美術の方はちょっと志したりして、高校生の時に河合塾の美術の基礎コースに通ったんですが、月曜日から金曜日まで、学校が終わってから行って4時間くらい毎日デッサンするんですね。
 最初は楽しくデッサンしてたんですが、高校1年生の夏休みに、これから専門的なコースに進むための体験講義があって、そこで塑像をやったんです。ニワトリの実物を見ながら、粘土で作ったらすごく楽しくて、「これいい!」ってやってんですが、夏休みが終わったらまたデッサンの日々に戻ったんです。そしたら、病みまして、、、(笑)。
 デッサンが進まなくなって、キャンバスに向かえなくなってしまった。それで、4時間ずっと鉛筆を削るだけの日々が1週間続いて、、、

清水:絵をかくのも小さい頃から好きだったんですよね?

磯村:そうですね、母親にこういうの描いてみたらって言われて、デッサンまがいのことはやってたりして、それで、芸大の美術系に行ってみたいなってちょっと思って、それで河合塾に通い始めたんですが、、、。

石黒:辞めてしまった、、、

磯村:はい、生まれて初めて、親に土下座して、辞めさせてくれと。こういうコースに入るには結構お金もかかってますので申し訳なかったんですが、、、。

磯村さんのこれまでの軌跡② 気づきの時代 [動画はこちら]
石黒:それで、芸術系の学校に行くのは一旦やめにしたと。それで、どうなったんですか?

磯村:少年少女合唱団は高校3年生までやってたんです。名古屋は劇場もあって、大きな公演もちょくちょくあるので、子役の調達を現地ですることもあって、合唱団からオペラに何回か出演させてもらったんです。
 その時に、出演している人たちにももちろん興味があったんですが、それよりも裏方のスタッフの人たちに感銘を受けたというか、こういう仕事もあるんだって思ったんですね。楽屋から舞台袖までアテンドしてくれる人とか、キュー出してくれる人とか「かっこいい!」って思って。
 私、自分が舞台に出るよりも、袖から舞台を観てる方が好きだなって気づいた。

清水:それじゃあ、そういう裏方のことを勉強する学校に?

磯村:そうすればよかったんですが、そういう学校のことよく知らなくて、、、。当時はまだ少なかったですね、専門学校ではあったと思いますが、うちは専門学校じゃなくて大学に行きなさいって方針で。それで、高校からエスカレーターで行ける大学に進学しました。

石黒:学部は?

磯村:国文学科なので、ちょっとは関係してますかね。それで、大学に通いつつ、アルバイトで劇場に入って、まずは表方、チケットもぎりとかやって、それから裏方もやったりした。

清水:大学卒業後もそういう裏方の仕事に就こうと思って、そういうところでアルバイトしたと。

磯村:そうですね、とにかく舞台に関わっていたいなぁと。

清水:その頃の名古屋の劇場の状況ってどんな感じだったんでしょう、25年くらい前ですか?

石黒:各区にある文化小劇場が出来ていく最中くらいでしょうか。

清水:県の芸術文化センターもその頃出来たんでしたっけ?

磯村:芸文はもうちょっと前、私が中学生くらいの時に出来てますね(1992年会館)。芸文の存在も大きくて、名古屋の劇場界隈は盛り上がっていくところだったと思います。

清水:アルバイトするところもたくさんあった?

磯村:そうですね、ある公演を手伝うと、あんたちょっと使えるから次空いてる?なんて感じで。

石黒:今でもそうですけど、若い子そんなにいないですしね。僕もそんな子が裏方手伝ってくれたら、すぐ声かけますよ。

磯村:お金もらって勉強できるって、喜んでやらせてもらってました。

清水:手伝っていた公演の内容は?演劇なんかもあったんですか?

磯村:演劇はちょっと畑が違うので、当時入っていたのはオペラ、オペレッタ、バレエ、クラシックコンサートなどでした。

石黒:それは、表方?裏方?

磯村:制作ですね、制作バイト。

石黒:まさに、今に繋がってますね。

磯村さんのこれまでの軌跡③ 大学を卒業して  [動画はこちら]
清水:そんな大学生活を過ごされて、そして卒業されて、、、

磯村:その辺りは、黒歴史なんです(笑)、ふわふわしてて。一応就職活動はしたんですけど、、、

清水:磯村さんの頃だと、もう就職氷河期ですね。

磯村:氷河期を超えて、、、なんて言われた頃でした。親の手前ポーズでも就活はしないとって思って、ちょうど卒論を書いてて、卒論は国文学で唯一舞台に関係する歌舞伎で書きまして。その調査も兼ねて東京に行ったついでに就活もしてくらいで。
 でも、そんな感じですから受かるはずもなく、大学卒業後も劇場や、名古屋の事業団にパートタイムで入ったりしていました。

清水:その頃は、ゆくゆくはこういうことやりたいとか、ここに入りたいとかはあったんですか?

磯村:自分の中で進みたい道は、舞台監督とか小道具等、演出部でやっていきたいって気持ちはあったんですが、やればやるほど自分に向いてないこともわかってきて(笑)。
 私、すごくタイミングが悪いんですよ、演出部ってタイミングって重要で、キュー出すのもタイミングですし。特殊効果でクラッカーを鳴らすことがあったんですが、私だけズレるという(笑)。
 小道具も演出家のイメージを受けて作るんですが、作っているうちに「私なんでひらひらクッション作ってるの?」って思い始めてしまって。さらに「なんで今この演目をやるの?」ってところまで行ってしまう。

清水:行き詰ると自問自答しちゃうんですね、なんでデッサンしてるの?の頃から。

磯村:本当にそうですね。それで、私って企画の段階から携わらないと納得できないってことに気づいたというか。でも、当時文化制作とかアートマネージメントという言葉が出始めきた頃で、どうしたらそういう仕事ができるのかわからなくて。
 そんな私を見かねた友だちが、愛知県の文化芸術センターの劇場課ってところのアルバイトを紹介してくれたんです。劇場の施設管理ですね。

清水:これまでは、制作として公演をする側だったのが、劇場の側から携わったと。

磯村:見方も違いますしね。制作担当とバトルもあるんです、「今度の公演で水を張りたい」「水なんて無理です」とか。
 企画する人をアートマネージャーって言うんだってこともわかってきて、愛知万博の前に、NPO法人世界劇場会議名古屋の「アーツプログラム実践講座」ってのがあって、アートプロデューサーを要請しますってあって「これだ!」って思って受講しました。

磯村さんのこれまでの軌跡④ アートマネージャーへの道
清水:アートマネージャーとかアートプロデューサーという言葉が認知され出した頃ですね。

石黒:そうですね、万博前後くらいから、舞台関係者の間では言われ始めていた。15年くらい前ですね。劇場法の制定もあって、文化ホールに芸術監督を置く等も始まり、そういう人材も必要だって認知されていった頃だと思います。公共施設も企画内容で評価されるようになってきて、企画力が求められる時代になった。

磯村:アーツプログラム実践講座を受けた翌年は、その事務局に入りまして。ちょうど万博の年だったので、名古屋で「国際芸術祭」をやることになって、そこに共同でプログラムを企画したりしました。
 それで、世界劇場会議の理事の中に、当時の知立市文化会館パティオ池鯉鮒の館長の伊豫田静弘さんがいらっしゃって、実は以前パティオの人員募集の試験を受けたことがあるんです、とってもいい施設だなぁと思って。試験は落ちてしまったんですけど、そのことを館長さんが覚えててくださって「君、まだこういうことに関わってるんだね」って声をかけていただいて。それで、職員が1人産休になるので代わりに来ないかと言われて。

清水:パティオは、開館してどれくらいになりますか?

磯村:もう20年になりますね(2000年会館)、だから、私が入ったのは会館して5~6年くらいの頃です。

清水:パティオもこの辺りでは先験的にいろんな取り組みとしている施設として有名ですね。

石黒:そうですね、その初代館長の伊豫田静弘さんが、いわば芸術監督的にいろんなことをやって、知立は決して大きな市ではないけど、あの規模の市の公共施設としては、画期的だったと思います。

磯村:確かに、画期的でしたね。

清水:この辺りだと、パティオと長久手文化の家が、色々面白いことやってるなぁという印象を持っています。

磯村:そうですね、どちらも劇場もいいですし、作り物の公演を大事にされてますね。

清水:パティオではどんなことを?

磯村:産休に入った方がクラシック担当だったので、最初はそこに入りました。その後、パティオにはギャラリーがあるんですが、そこをもっと活用したいなって思って。じゃあ美術をやろうって思って、そこで始めて美術に目が向いたんです。

石黒:それは、ある程度自分のやりたいことができる環境だったんですか?

磯村:上司に直談判しました(笑)。当時、子ども向け、体験型のものがあまりなかったので、そういうものを取り入れたワークショップシリーズの企画書を作って。

石黒:今なら人気のコンテンツですね、先取りしてた。

磯村:そうですね、当時はそんなに深く考えてはなかったですが、ただ、劇場で大人向けの公演をどんどんやってても、子どもを育てていかないと劇場に来る人がいなくなっちゃうなって想いはずっと持ってたんです。小さい頃から来てもらう、小さい頃から芸術に触れてもらうきっかけがとても大切だと。
 私がまさしくそうで、小さい頃に父に美術館に連れて行ってもらったり、公演を観に行ってたことがとっても大きかったので。

石黒:そこで、繋がってくるんですね。

磯村:そうなんですよね。小学生の頃、学校に行って「昨日クラシックのコンサートに行ったんだ」って言っても全然通じなくて、「名フィル」って言っても「誰?」って感じでもどかしさを感じていたんです。

石黒:その頃はまだお子さんはいらっしゃらない?

磯村:そうですね、結婚はしてましたが、子どもはまだの頃ですね。

清水:子どもが芸術に触れる機会を増やしていかないとという想いは若い頃からあったんですね。

磯村:そうです、そうしないと誰も劇場に来なくなっちゃうっていう危機感がありました。
 子どもが何に興味を持つかは、親の嗜好に大きく左右されますし、ちょうどインターネットも普及してきて、例えば動画をネット見れるとか、リアルに何かを観るということが崩れていきそうな空気も感じていました。
 それで、気軽に子どもが体験できるワークショップをやろうと。

石黒:それは、美術のワークショックだったんですね?

磯村:音楽でもダンスでもよかったんですが、やっぱり音楽とかダンスってちょっとハードルが高いイメージがあるかなと。だから「美術」とは言わずに「落書きしよう」って言って。高さ4m幅8mの壁があって、そこに紙を貼って、絵の具を投げつけたら楽しいだろうなって。

石黒:それを最初に企画されたと。そういう企画はパティオでもそれまではなかった?

磯村:なかったみたいですね。参加者もすごくよろこんでくれて。内容を変えながら3年やりました。それで私が部署異動になってプログラムがなくなったんですが、そうしたら「あのプログラムもうやらないんですか?」って問い合わせが結構あったと聞いて、やった意味があったかなと。

清水:壁に絵の具を投げつけてみようってのが企画として成立するって、まだ思えない頃ですよね。今ならいろんなところでやってますけど。

石黒:公共施設だと、汚さない、壊さないが先に来ちゃうしね。

磯村:壁も床もものすごい養生してやりました。

石黒:それは、磯村さんの中でも、腑に落ちるというか、これは自分がやりたいことだなって思えた?

磯村:そうですね、こういう答えのないものをやっていくのが重要だなって気づいた時期ですね。

清水:パティオは何年在籍されてたんですか?

磯村:7年半です。最後は営業担当に異動になったんですね。それまでなかったんですが、営業部門を作ってみようということで、私が1人営業担当になった。

石黒:営業って何をするんですか?

磯村:チケットを売りまくるんです。市内の企業や団体の集まりに行って、例えば老人会に行ったら演歌歌手の公演のいい席がありますよって売ってくるとか、団体割引ありますよとか、年間会員になりませんかって。

石黒:なるほど、制作には必要なことですよね、でも大変ですね。

磯村:とっても勉強になりました。プレゼン力もその時についたと思います。その後諸事情あってパティオを退職しました。営業に異動になった頃に、刈谷から豊田に引っ越してきました。

清水:その頃大学にも入学されて。

磯村:通信なんですが、パティオで美術に関するプログラムを企画している頃から何の資格もないことにモヤモヤしてて。資格がないのにやっててもいいのだろうかと。
 京都造形芸術⼤学(現 京都芸術⼤学)通信教育部科⽬等履修博物館学芸員課程で、博物館学芸員資格を取得しました。

磯村さんのこれまでの軌跡⑤ 豊田に引っ越してきて~市民団体office codonart立ち上げ [動画はこちら]
清水:豊田の印象はいかがでしたか?刈谷の人が豊田に来る機会ってあんまりないんじゃないかと、、、

磯村:いや、母の実家が豊田で、実は夫の実家と同じ町内だったという偶然もあるんですが、おばあちゃんの家には小さい頃から遊びに来てました。だから豊田というと田舎のおばあちゃんちって感じですね。

清水:この辺りは刈谷に比べれば実際田舎ですしね。それで、パティオを辞められてから、刈谷の商店街に関わられたと。

磯村:刈⾕駅前商店街振興組合の事業企画のためにNPO法⼈まちづくりかりやに在籍しました。アートをやっていきたいってことで、若いアーティストと組んだプログラムをやったりしました。

略 ※NPO法⼈まちづくりかりやでの活動について 動画はこちら

清水:その頃に、codonartを立ち上げられた。

磯村:個人名よりも屋号があった方がいいなと思って、codomo(コドモ)と otona(オトナ)と art(あーと)をつなぐという意味で、office codonart(オフィス・コドナート)を立ち上げました。

石黒:まだこの場所はない頃ですよね?

磯村:はい、なので、office codonartは当初は団体ではなくて、私個人の活動でした。それで出産しまして、1年半ガマンしまして(笑)。

清水:活動ができなくてガマンしたんですね?

磯村:はい、子育てしなくちゃって(笑)。でも子どもが1歳半くらいになった時に、なんかやれるかもって思って。
 豊田の土地勘や知り合いもいないので、孤独に子育てしてたので仲間も欲しいなと。子どもが育つ環境の中に、この地域だと芸術がないって思って。美術館行くのも車で30分かかりますからね。それなら、自分で作っちゃおうかと。それでまずは個人で色々やってみようと。

清水:それは、公共施設でとかですか?

磯村:吉原町に多世代交流サロンひだまりができた頃で、そこを使わせてもらいました。
 最初に「恩送りポスト」という次の人に恩を送るポストを使った参加型のイベントをやって。そこで少しずつプログラムやる中で子育て仲間も出来てきて、子育てする中でやっぱり絵具遊びさせたいよねってなったんですが、自宅ではやりたくない(笑)。「はみ出さないで」とか絶対に自由を制限しちゃうなって思って。
 それで、ひだまりで絵具遊びも始めました。うちの息子は絵具とともに育った(笑)。絵具だけじゃなくて、布とかいろんなものを使って、色々あそぶ場を作って。それが「ひょうげんあそびば」になっていきました。

清水:「ひょうげんあそびば」は今も続いているプログラムですね。それで、office codonartを個人の屋号から団体にしたと。

磯村:とよた市民活動センターに団体として登録しました。

清水:さらに、とよたデカスプロジェクトにも応募されたりして。

磯村さんのこれまでの軌跡⑥ アトリエVIP開設  [動画はこちら]
磯村:ひだまりで絵具遊びした時に、とある子どもが筆を振りかぶってやって、その時は「いいね!いいね!」って盛り上がったんですが、養生を壁と床はしてたんですけど、天井まではしてなくて、築90年の立派な古民家のひだまりさんの梁に絵の具がペタペタペタってついてしまって。
 それを拭きながら「これはまずいな」と思った。何がまずいかというと、次の時に子どもが振りかぶったら止めちゃう気がすると。「ちょっと待って」って言っちゃうんじゃないか、自由にやっていいって言いながら止めちゃあダメでしょって思って、もっと自由に使える場所がいるなと思いました。

石黒:そして、この場所に繋がると。でもよくパチンコ屋が借りれましたね。

磯村:最初からここを借りるつもりだったわけではないんですよ。ここの向かいにでんぷん工場があって。“若林の香り”って言うとこの辺りの人はみんな知ってるそうですね。

清水:もちろん知ってます、夕方になると若林周辺に甘い香りが立ち込めるんですよね。

石黒:僕も学校帰りの頃には、ぷぅーんと匂ってました。

磯村:そのでんぷん工場がやめられたって聞いて、工場の跡地を使わせてもらえないかって思ったのがきっかけです。
 でもつても何にもないから、子どもと散歩がてら見に来て、ちょうどこのVIPの軒下で、おやつ食べながら見てたら、おじさんがつかつかって向こうからやってきて「どうしましたか?」って聞かれて、怒られるかなって思って「雨宿りしてます」なんて答えて。
 そしたら、そのおじさんが向かいの事務所に入っていったんです「あっ、でんぷん工場の関係者だ」って思って、事務所に行って「工場どうなるんですか?」って聞いたら「壊して、次の予定もあるから」って言われてがっくりして。
 それで「実は子どものアート遊びをやってて場所を探してるんです」って言ったら「いいね~」ってすごく賛同してくれて「パチンコ店の方だったらいいかな」って言ってくれて。でんぷん工場さんがここも管理されてるって知らなかったので。

石黒:パチンコ店としてはもう閉まってた?

磯村:もう閉店して10年くらい経ってて、閉店後はでんぷん工場が倉庫として使ってたんですね。でも工場がなくなって倉庫としても使わないからって。
 それですぐ社長さんを呼んでくれて、社長さんも「いいよ」って「今から中見てみる?」って(笑)。その場で決まった。
 だから、まずは場所が決まって、それから人が入れるように中を少しはいじらないといけないけど、でもお金もないしって感じで。
 まちさと未来塾の中に建築士の人の講座があったなって思い出して、説明会に行ったら会えるかなって行ってみたら建築士の人と隣の席になって、相談したり。
 次はお金が必要だ、これはもうデカスの賞金を狙うしかないと。とよたデカスプロジェクトは、前年に六鹿会館での企画でプチデカスに採択されてて、今回は大賞を狙うぞと。

清水:それが2018年ですね。

石黒:でも、改めてお話を聞くとトントン拍子ですね~。どのことをとっても結構ハードルが高いと思うんだけど。

清水:本当にそう思います、我々もやっぱり場所が欲しいよねってもう20年くらい前から言ってて実現できてないんですが、パチンコ屋跡地をアートの拠点にしますってデカスで見た時に、どこの誰が?どうやって?って結構衝撃でした。

石黒:さらにアートセンターを南部でっていうのも盲点というか、僕も衝撃だった。最初は、地域のおじさんたちがまちおこし的な感じで始めたのかな、わくわく事業でやればいいのにって思ったくらいで。

清水:それで、2018年とよたデカスプロジェクトの大賞を宣言どおり獲られた。

アトリエVIPとは?アートは遊ぶことから生まれる  [動画はこちら]
磯村:はい、まずは場を開くということで、パチンコ店閉店してから10年経ってるんで、ハトのフンが2センチくらい積もってるような状態だったのを、再生するプロセスから含めてアートプロジェクトとしてやろうと。

石黒:アトリエVIPという名前はどこから?

磯村:ここパチンコVIPだったんです、それでVIPはそのまま使おうと。

清水:アトリエVIPでは、これまでにどんなプログラム、イベントをやられてますか?

磯村:オープニングは、この壁も真っ白だったので、3人のアーティストのライブペイントと生演奏のコラボイベントをやりました。
 あとはクリスマスのワークショックだったり。まあでも、材料を用意してみんなで遊んでるだけなんですけどね。「ひょうげんあそびば」を継続してやってます。

清水:デカス大賞を獲られた時のサイトを見たら、企画趣旨として
 20年ほどまえに閉店となり、でんぷん⼯場の資材置き場となっていた元パチンコ店「VIP」を、アートを介した地域のコミュニティスペースとして再⽣させる試み。
 「VIP」の名をそのまま残した遊べるアトリエを、地域の⼈たちの⼿によって整備し空間を創造することで、かつてのオジサンたちの遊技場だった場所を、⽼若男⼥の集うみんなの遊技場へと⽣まれ変わらせます!
ってあって、オジサンたちの遊技場がみんなの遊技場に、ってなんかいいなと(笑)。

磯村:近所の人には「昔ここには大分投資したよ」っていう人もたくさんいて(笑)。

石黒:芸術遊技場って言葉もいいですよね。

磯村:“アートで遊ぶ”を漢字にしたら“遊技場”かなって思って。とにかくアートって遊ぶことだと、徹底的に遊ぶことがアートだって、遊びから始めないとアートは生まれないと思っているので。

清水:現在もここを拠点に色々とやられてて。

磯村:ただ、コロナになってしまって、たくさんの人が一同に集まってということができないので、今は大人が語る場とか未就園児のためのプログラムとか、スポットを絞って、小さなイベントを積みかさねています。

アートの日常化を目指して  [動画はこちら]
清水:ということで、これまでの磯村さんの歩みをお伺いしてきたんですが、ここからは、豊田というまちとアートとの関係とか、これからの目標、目指したいことなどを伺います。

磯村:もともとここを作った時に考えていたのは“アートの日常化”ということで、VIPフレンズというここを拠点に活動する仲間がいるんですが、その人たちにどんどんここを使ってもらいながら、ここに来ると何かやってるよっていうふうになるといいなと思っています。

清水:フレンズのみなさんはこの地域の方が多いんですか?

磯村:地域の人が半分、それ以外の方が半分くらいですね。岡崎や安城の方もいらっしゃいます。
 それから、これまでは地域の方たちとガッツリ絡むことはなかったんですが、この秋に、若林八幡宮でマルシェが企画されていて、そこに出店、参加する予定です。そうやって、若林地区のみなさんとのつながりも濃くしていきたいと思っています。

石黒:アートの日常化というと、やっぱり地域の人たちにも認知されていくってのはポイントですね。

清水:アートの日常化にも絡むことなんですが、今日ぜひ磯村さんに聞きたいと思うことがあって、それはアートっていう言葉とイメージについてなんです。
 アートとか芸術とかそういう言い方があって、例えば石黒さんがやっているのは演劇で、私はご当地アイドルやってて音楽や映像にも関わってるんですが、アイドルのパフォーマンスはアートとは言われないんですよね、表現するとか、楽しむとか、楽しませるとかそういう意味では磯村さんがやっていることと共通することも多いと思うんですが、言葉が違うと無意識に違うものっていうイメージ、カテゴライズを勝手にしちゃうところがあって。

磯村:このアトリエVIPはオーナーさんとの契約では、office codonartの事業として使うことっていう条件があるんですが、office codonartの活動自体がすごく広義で、芸術とはみたいな話になると難しくてよくわからないんですが、私は“人が自分を表現して生きること”がすべてアートだと思っているんです。

清水:磯村さんが、10年20年と活動されてきて、人々の意識、表現することはなんでもアートなんだっていうのは浸透してきていると思いますか?それともまだまだ垣根はあると感じますか?

磯村:そうですね、、、まだハードルが高いと思われている部分もあるというのが正直なところですね。

石黒:アートっていう言葉を使うとハードルが上がるのかな。

磯村:でも芸術って言うともっと上がっちゃいますしね。

清水:なんかいい言葉がないかなぁとは思いますね。まだまだアートと言うと、絵を描くとかね、そういうイメージが、、、

磯村:そうですね、美術を連想する人も多いと思います。でも、子どもは生まれながらにしてアーティストで、アートとは?なんて考えてないですからね。
 だから大人がそれを見てハッと気づくきっかけにもなったらいいなと。子ども向けと言いながら大人に向けてやっているとも言えます。言葉を変えるのは難しいですが、言葉のイメージをどんどん変えていきたいですね。

清水:例えば、ほんの100年前、戦前の頃までは、田舎の村でも、お祭りがハレの舞台で、村のみんなでお囃子やったり、農村歌舞伎があったり、そういうことが身近にあったと思うんです。でも今は、コンサートや芝居は好きな人が劇場に行って観るものってなっちゃって、生の表現を見たりやったりするという意味では貧しくなってると思うんです。

磯村:技術や知識がある人でないと、表現ができないって思われてるのが悔しくて。
 それから、今は答えがあるものをすごくやらされるじゃないですか、子どもたちも。図工のキットとかもあって。答えがなくてもいいってことに気づいて欲しい、ただただ遊んでいること自体でもうあなたの表現になるんだと。

石黒:学校も、部活などどんどん外に出て地域と一緒になってというふうになっていくようなので、こういう場所が重要になっていきますね。
 今学校はどうなんだろう、美術も選択制になったりして、絵が描きたくても描けない場合もあるとも聞きますし、図画工作にどれくらい時間を割いているのか、、、。
 でもそういう時間は減っていく方向性だろうと思うので、地域でその分を支えていかなければと思います。

磯村:学びの拠点は学校だけじゃなくて、地域の中にいくつもあった方がいいと思うし、今みたいに全部学校に頼るばかりでは続かないと思います。

石黒:私と清水さんも、とよた市民アートプロジェクトで、まちなかにアートが何気なく潜んでいて、日常生活の中にアートを体験する機会が増える、そういうまちにしたいっていうコンセプトでやっていたので、磯村さんがここでやっていることと通じるものがあると思ってます。

好き嫌いでいい、わからなくていい  [動画はこちら]
清水:アートって、数をあたるっていうか、触れることって結構大切で、特に現代アートの作品なんかは、最初は「これは何を意味してるんだ?」とか「的外れな感想言ってバカにされないか」とか、まさに答えを探しちゃうんですが、いろんなのをたくさん見ていくと「これ好きだな」とか「これはよくわかんない」とか、そういうことでいいってこともわかってくる。

磯村:そう、そこなんですよ、好き嫌いでいいんです。よく「わからない」って言われるんですけど、わかりっこないんです、作ってる人だって多分わかってないよって。わからないといけないっていう呪縛が、、、。

清水:なんなんでしょうね、学校の宿題でよく出た読書感想文の弊害ですね。

磯村:それに「俺は知ってるぜ」みたいな人が、そんなこともわからないの?言っちゃう文化もありますよね。そんなのいいじゃんって思うんですよね、そりゃ背景とか知ってればより深い理解もあるかもしれないけど、基本はパッとみてパッと感じたことがすべてなわけで。

清水:やっぱり体験ですよね。実際に美術館で絵を見ると、写真では感じられない何かってやっぱり感じますよね。それが何かはわからないんだけど、色々観ていくと、違いがあることもわかって、好きだな嫌いなだって違いも出てくる。
 わからないとどうしても解説とか読んで、そういうことなのかって納得して済ましちゃいがちですけど、それを乗り越えるのって、やっぱり数を観る、たくさんいろいろ触れることかなって思います。

磯村:感じる訓練というか、いかに心をパカっと開けるかだと思ってて、”ただ感じる”ことができる状態を作れるようになると、楽しめるようになると思うんです。それは経験の積み重ねだと思いますね。

石黒:子どもの頃から美術館が近くにあったとかお父さんが尺八吹いてたことが今の磯村さんを作っているように、環境が人を作っていく、特に子どもを育てていくんだと思うんです。
 だから、このまちにこういう場所があるって、必ずそれに触発される人が出てくると思う。ぼこぼこ出てくるわけではないけど、僕たちの現場でも言うんですが、100人1,000人の中で1人そういう人材が出てくれば、またその人がまちを面白くしていってくれると思うんです。
 だから、ここにこの場があることってとっても重要だと思うし、やがて磯村さんから次にバトンダッチされていくんだろうと。

磯村:自分の子どもが育っていくまちなので、面白いまちじゃないと嫌なんです、自分も多分死ぬまでここにいるので。

清水:それ大切ですよね、私も、別に豊田という街が特別だとは思ってない、豊田に愛着があるわけではないんです、でも住んでるまちなんで、やっぱり面白いまちであって欲しい。

磯村:住むなら面白いまちに住みたい、面白くないなら作ればいいって思います。

清水:アトリエVIPの情報は、どこを見ればいいですか?

磯村:office codonartのFacebookページで発信してますので、そちらを見てください。参加したいとかコラボしてみたいとかもお気軽にメッセージください。
https://www.facebook.com/office.codonart
 近々で言うと、とよたつながる博のプログラムの1つとして(プログラム71)、ひょうげんあそびば特別編「うごくからだカラダーーーンス」というのを9月25日にやる予定です。

一同:ありがとうございました。

出演者プロフィール
磯村美沙希(いそむらみさき)
 市⺠団体office codonart(オフィス・コドナート)代表、豊⽥市南部芸術遊技場[アトリエ VIP]管理⼈。アートマネージャー。刈谷市出身、豊田市在住。
 小さい頃から家族に連れられて美術館やコンサートホールで芸術鑑賞に親しむ。10歳より少年少女合唱団に所属、高校生の頃より舞台の裏方にも興味を持ちホール等にてアルバイトを始め、舞台制作や舞台監督助手なども務める。
 大学卒業後、愛知県芸術文化センターの臨時職員になり、2003年NPO法人世界劇場会議名古屋の「アーツプログラム実践講座」を受講。アートマネジメントの基礎と実践を学び、翌年は事務局を担当する。
 その後知立市文化会館「パティオ池鯉鮒」に入職。子ども向けの美術ワークショップ企画はじめ様々な事業に携わる。
 2012年、京都造形芸術⼤学(現 京都芸術⼤学)通信教育部 科⽬等履修 博物館学芸員課程にて、博物館学芸員資格を取得。
 2013年、刈⾕駅前商店街振興組合の事業企画のため NPO 法⼈まちづくりかりやに在籍。2014年、個⼈の屋号としてoffice codonartを⽴ち上げ、同組合の事業を運営。
 その後、豊田市へ転居し、「0〜2 歳の親⼦で楽しむ芸術あそび トパのオトノバ in 豊⽥ ⾳で読む絵本」をきっかけに仲間を集め、2017年、市⺠団体office codonartを設立。
 2018年「場をひらくー豊⽥南部芸術遊技場 アトリエ VIP プロジェクトー」で、とよたデカスプロジェクト 2018デカスコース⼤賞を受賞。アトリエVIPを拠点に様々なイベントやワークショップなどを開催。2020年には、とよた市民アートプロジェクト「とよたまちなか芸術祭」実行委員も務める。
office codonart Facebookページ https://www.facebook.com/office.codonart 

石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。
とよた演劇協会 https://toyota-engeki.jimdofree.com/

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作、フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。
豊田ご当地アイドルStar☆T http://star2t.com/
映画街人とよた http://eigamachibito-toyota.net/


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