2021年5月27日木曜日

【ダイアローグ】<TAG>ダイアローグ 第7回「豊田の私的現在民俗学的歴史といま・これから」ゲスト:後藤真一氏(新三河タイムス)文字起こし(2017.1)

豊田とその周辺地域の、演劇・映像・音楽・アートに関する情報と人材のネットワーク<TAG>Toyota Art Geneサイト → http://toyotaartgene.com/

豊田で活躍する人材をお招きしてお話を伺う<TAG>ダイアローグ。再開をしたので、<TAG>第1期公開分で文字起こしができていなかった分の文字起こしを少しずつ進めています。
今回は2017年1月公開分の文字起こしです。大変遅くなりましたが、4年経っても興味の尽きないお話をしていただいてますので、改めてでも、初めてでも、動画視聴と合わせて文字起こしお楽しみください。
<TAG>ダイアローグ動画 ゲスト後藤真一氏 → https://youtu.be/2WJfK-ojTAA
<TAG>チャンネル登録もよろしくお願いします → https://www.youtube.com/channel/UCIjZssyxVzbc1yNkQSSW-Hg

1時間超の動画をご覧になるお時間がない方のために、文字起こしも掲載します。※全編の文字起こしではありません、よろしければどうぞ動画をご覧ください。

豊田の私的現在民俗学的歴史といま・これから
ゲスト/後藤真一氏(新三河タイムス)ホスト/石黒秀和 清水雅人 2017.1収録
ゲスト紹介
清水:みなさんこんにちは、<TAG>通信映像版1月号です。
略 ※冒頭ごあいさつ省略します
 <TAG>通信[映像版]6回目です、今日のゲストは、新三河タイムズの編集長 後藤真一さんです。

後藤:よろしくお願いします。

石黒:後藤さんもう編集長なんですか?

後藤:そうなんです。

清水:どれくらい前からですか?

後藤:もう5年くらいでしょうか。

清水:新三河タイムスも、もうかなり長いですよね。

後藤:豊田市制の頃に創刊してますから、70年近くになりますね。

清水:そんなに歴史があるんですか。いわゆる地域新聞ということでいいですよね。

後藤:そうですね、週刊で発行しています。

清水:豊田の市政から、その他豊田地域のことを掲載していて、会社も市役所のすぐそばにあって。後藤さんも、大学卒業されて入社されて、、、

後藤:もう22、3年経ちますね~。

清水:
今回後藤さんをゲストにと思った理由は、フェイスブックなど見させてもらっていると、もうありとあらゆる市内のイベントに顔を出しているというイメージがあって。
 私や、石黒さんも実は一緒だと思いますが、活動ではプロデューサー的な役割も多いけど、本当はクリエイターというかディレクターの方が元々の気質で、外に出て、いろんな人と会ったりとか、人付き合いしたい方ではないんですよね。

石黒:そうそう、私も本当は1人でコツコツ書いていられればいい方です。あまり人とは会いたくない(笑)。

清水:そういう意味で言うと、後藤さんは根っからのプロデューサー気質というか、いろんなところに顔を出されて、人脈を広げているというイメージがあるんです。新三河タイムスに入られて20数年ずっとそうやってこられていると思うんで、豊田をずっと見てきた歴史というか、豊田の動きみたいなことを、ざっくばらんにお聞きしたいと思って。それと、同世代なんですよね、我々の1つ下?

後藤:そうですね、昭和46年の3月生まれです。

石黒:そうですか、我々が44年生まれなので、学年は1つ下ってことですね。

清水:生まれはどの地区ですか?

後藤:四郷です。

清水:台中ですか、猿投台中学校ですね。井郷中学校が出来る前?

後藤:僕たちが卒業して井郷中学校ができました。

清水:私が石野中学校で、石黒さんが、、、

石黒:末野原が出来る前の上郷中学校です。

後藤:ちょうど高度成長期の人口がぐうーッと増えて学校も増えていく、そういう時期ですね。

清水:なので、今回は、ここ40年くらいの豊田の歴史というか、どんな感じだったっけ?っていう思い出話をしたいなって思ってね(笑)。テーマはもっともらしく「現代民俗学的歴史」と付けてますが、駅前こうだったよねとか、そういう話がしたいと思ってます。猿投台中学校も、生徒数が増えていく頃ですよね。

後藤:そうですね、僕らの頃で10組まであって、学年が1つ2つ下は13か14クラスありましたね。

清水:その頃がピークですね、いわゆる第二次ベビーブームの。上郷中学はどうでした?

石黒:10組はありましたね、11組あったかな、ちょっと定かじゃないけども、10か11組あったと思います。

清水:それだけ多いと知らない同級生もいますよね。

石黒:同じクラスなのにわからないって人もいるぐらい。

豊田の40年/昭和40年代~平成 豊田市駅前、トヨタ自動車、その他
清水:データも持ってきました、まず豊田市の人口推移です。これは調査時市域のデータですね、昭和40年代に町村合併してますが、その合併前の町村分は入ってない数字です。昭和44年の人口は17万5000人です。45年19万7000人、それで昭和59年に30万人都市になった。30万人都市になった時憶えてますか?

石黒:ああ、憶えてる、学校で何かやらされましたよね。

清水:昭和44年から50年の15年で人口がほぼ倍になってるんですね。それで、平成の大合併の時に41万2000人、この辺は緩やかに少しずつ増えた感じですね。今は42万3000人だそうです。
 昭和50年代っていうと、日本全国で言えばオイルショックもあって高度成長の伸びが緩くなっていく頃ですけど、豊田市で言うと昭和50年代にぐうーっと人口も増えていく真っ只中だった。私たちの小学校入学が昭和50年とか51年ですからね。
 もう一つ、トヨタ自動車の売上推移も持ってきました、1975年頃から1990年頃で売上が倍増しているんですね、90年がバブル崩壊です。これも覚えてますけど、95年ぐらいにトヨタの市場占有率が40%切ったとか言って大騒ぎしてましたよね、日産に負けるとか。でもその後プリウスを出すとか、奥田社長になったぐらいからまたちょっと盛り返してという。でも、生産台数はちょっとずつ減ってるんですね。

石黒:グラフで見るとそうなんだね。

後藤:これは国内生産?

清水:そうですね、国内生産ですね。そっか、この辺から海外に工場作ったりして生産拠点を移してることもありますね。

後藤:いわゆる日米貿易摩擦って言われて。日本製の車とか家電製品とか壊されてる映像がニュースで流れてました。それで、現地生産でトヨタもアメリカに工場を作ってという流れですね。

清水:子供の頃に、日本の製品は真似ばかりだみたいに言われて「そうなんだ、、、」って、経済は世界第2位になっても、なんとなく自慢できない気持ちがありましたよね。

石黒:トヨタ自動車に関しても、あまりポジティブなイメージがなかったですね。

後藤:正直なかったですね。

清水:車としても面白くないとかね。

石黒:周りがそういうふうに言っていたので、子供だからすごく感化されるというか。トヨタ自動車にだけは入りたくなって思ってましたね、父親はトヨタだったので、トヨタに育てられたわけですけど。

後藤:分かれるんですけどね、僕の同級生でも、トヨタに入る道に進む人もいれば、本当に反発して、トヨタだけは嫌だって違う道に進む人もいた。結構豊田人にとっての、進路の一つの分岐点みたいな、重要な部分だったと思いますね。これはそれぞれの親子関係もあったと思いますけどね。

清水:全体的に、日本的なものは良くないっていうアイディンティティもありましたよね。アメリカの方が絶対いいという、文化的に言っても。
 今やトヨタ自動車は国内では敵なしで、世界で1位2位を争う位置ですからね、トヨタももうダメかもって言ってた時代があったことが想像できないですよね。

石黒:そう、それで現金なもので、今はちょっと誇らしげなんですよね(笑)。

清水:そういう意味で言うと、社会人になった頃にプリウスが出たんですよ。あの時ちょっと感動したのを憶えています。ハイブリッド車っていうのを日本で作ったんだという、世界に先駆けで、これまでみたいな真似じゃないものを作ったという感覚があった。

石黒:トヨタの車ってやっぱりデザイン的にも、ちょっとダサイといういか、丈夫だけれど面白味がないみたいな。僕にとってトヨタの車を見直したのは、1年カナダに行っていた時に、向こうの人がトヨタの車はいいってみんな言うんですよ、壊れないってね。その壊れない良さ、要するに品質の良さっていう観点では、それまでは見てなくて、見た目だけで見てたので、品質の良さってのを、世界中の人が称賛してるんだっていうことを、海外に行って逆に知ったという感じでした。

清水:若い人たち、そうですね、30代以下ぐらいの人達って、生まれた頃から今まで、生活自体にほとんど変わりがない感覚だと思うんですけど、我々世代までは、まだ高度成長の名残を一応経験してるというか、コンビニのない時代を知ってる世代の一番下なのかなって。

石黒:田んぼや林森だったところが、どんどんどんどん開発されていくのを見てた世代ですね。

清水:僕は石野だったんで、そういう実感はあんまりないんですけど、お二人の周りはすざまじい開発があったんじゃ、、、

石黒:うちは豊栄町だったので、家の周りがどんどん変わっていって、大林の辺りなんかも何もなかったんですが、住宅街になってね。

清水:四郷はどうだったですか?

後藤:四郷はそれこそ最近ですね、四郷駅の周りが区画整理されて、やまのぶとか商業施設もできて。

石黒:最近そういう開発の仕方しますね、岡崎でもそうなんですが、スーパーがあって、薬局があって、カフェがあって、それで大体なぜか回転ずしがあって(笑)、その周りを住宅が囲うみたいな、○○タウンみたいな。

清水:豊田市の北部、猿投地区の方って人口は多いけど、梅坪以北商業施設はほとんどなかったですからね、ああいう大きな開発ってもう最後かもしれないですね。
 豊田市駅前で言うと、子どもの頃は、ユニーとかサントクヤとかがあったんですが、石黒さんはあんまり豊田市駅の方には来てないですか。

石黒:そうですね、僕はそうでもなかったんけど、友達は岡崎に行ってましたね、岡多線に乗ってね。

後藤 清水:岡多線!

石黒:上郷とか、東部の人は岡崎に買い物に行っていたと思いますね。

清水:高岡の人は、刈谷とか、豊田より断然都会でしたもんね。

石黒:豊田市駅前に行くのは、映画を観に行くとか、小さい時に親に連れられて長崎屋に行くくらいだったかな。

後藤:僕は豊田市駅前はよく行きました、トヨビルとか、アピタとか。

清水:アピタができたのが中学生くらいですか、ユニーから変わって。

後藤:僕はサントクヤは記憶にないですね。

清水:豊田市駅側から見ると左側に長崎屋があって、右側にユニーがあって、あれ?サントクヤがユニーになったんだったかな、、、。

石黒:それは僕も記憶にないなぁ、それはどういうお店?

清水:ユニーなんかと同じ感じのデパートっていうか、そういうお店だったと思います。
※サントクヤで検索してみたところ、サントクヤとユニーは別で、並んで建っていたようです。ユニー、長崎屋は会社は現在も存在しますが、サントクヤの詳細は当時もその後の経緯もネット検索だけではわかりませんでした。
 それでユニーがアピタになった。駅前の交差点に本の原田屋さんがあって、そのこっちに市民センターってのがありました。

後藤:今の参合館のあたりですね、あと不二家があって、第一勧銀があって、、、。

清水:だから、高度成長期、昭和30年代末から40年代にワーッとその辺りが建って、それから豊田市駅の高架化があってですね。僕は高校生の時にそごうの工事をずっとしていた記憶があります。

後藤:僕が高校3年生の時にそごうができましたね、友達と「豊田にデパートができるよ」って。

清水:後藤さんは、高校はどこだったんですか?

後藤:北高です。

清水:ちょうど分かれましたね、私が西高で、石黒さんが南校ですから、北西南揃いました。四郷から北高だと自転車で通学ですか?

後藤:まだ豊田大橋もないので、高橋を渡ってですね。

清水:平成記念橋もないですもんね。

石黒:後藤さんは北高の何期生になるんですか?

後藤:8期生です。

石黒:できたのは北高が一番早かったですね、僕は南高の6期生です。

清水:西、東、猿投農林は昔からあって、あの頃の新設校では、北ができて、南ができて、豊田高校ができての順番ですかね。

石黒:それで最後に豊野高校ができた。

清水:豊田市駅周辺で言うと、あづまやもまだ古くてね。

石黒:古いあづまやは憶えてる。

清水:内藤書店とかね。駅ビルがトヨビルでしたが、高架化でトヨタプラザができて。

後藤:トヨタプラザ、懐かしい響きですね。

清水:今も一応トヨタプラザじゃないですか?

後藤:そうですね。

清水:それでそごうができてですね。駅西はいわゆる駅裏で、裏って言うと怒られますけど。

後藤:僕怒られました、フェイスブック上で(笑)。

清水:でも当時は駅の西側はすぐ民家って感じでしたからね、吉田屋さんだけあったみたいな。

石黒:やきそばの吉田屋ね。

清水:そごうができて、逆に駅東のお客さんが減るって言われて、長崎屋がなくなって、長崎屋の跡地に何も入らなくて、おいでん横丁とかやってみたり、、、がちょうど社会人になった頃ですね。だから豊田市駅周辺でいうと、あの頃がなかなか厳しい時代だったのかなと思います。私は市役所に入ったんですが、あの辺りの飲み屋さんのどこに行っても、市役所の職員しかいないという状況だった。

石黒:そうなんですよね、あの頃の駅前の雰囲気にだけは戻したくないって、みんな口を揃えて言いますね。

清水:ちょうどバブルもはじけて、さっき言ったようにトヨタ自動車も苦戦してて、なかなか厳しい時期だったんですね。でもそこから、2000年代になると、飲み屋さんも増え始めて、コモスクエアも出来て、、、。

後藤:コモスクエアは今年で10年ですね、2007年にできた。

清水:
じゃあそのちょっと前ぐらいから、夜の賑わいが戻ってきたという印象ですね。それってどういう理由なんでしょう、再開発があって、会社も増えて、人も増えたってことですかね。

後藤:どうですかね~、基本的にトヨタ自動車は真面目な会社ですので、平日は飲まないですからね、週末や休みの日、金曜日の夜なんかに集中するので、今も相変わらず平日はなかなか厳しいところがあると思うんですけど。でもあの頃お店も急に増えましたね。

清水:結構お店が増えていって、こんなに増えて大丈夫かなって思ったくらいだけど、意外と閉店せずに増え続けてますから。映画作りを始めて、2005年か6年ぐらいに、日進にある名古屋学芸大学の映像の学科の学生と交流があって、学芸大の学生ってどこに飲みに行くの?って聞くと、だいたい3か所だと、近場だと藤が丘で、あとは豊田に来るか栄まで行くかだと。豊田が選択肢に入ってるんだって思いました。今でも土曜日なんかだと学生多いですね。

石黒:でも、それは飲み屋が増えたから学生も増えたということだよね。そもそも人が増えたから飲み屋が増えたのか、飲み屋が増えたから人が増えたのか、、、ただ、どう考えても、人が増えたという印象があんまりないんですよね。だけどそれだけの飲食店が進出したというのは、その理由が、いまいちわからないというか、思いつかないんですよね。

清水:市の担当者に言わせると、コモスクエアの上とか会社が結構入って昼間人口が増えてたからだって聞くんですが、、、。

後藤:でも、数は知れてますよね~。

清水:あとは、店が増え始めた当初に聞いたんですが、名古屋で何店舗か出したお店が、その後豊田に出店するみたいな流れもあると、豊田市駅周辺がいいっていうマーケティング的な流れもあったのかなとも思うんですが。

石黒:客単価が高いって話は聞きますね、数は名古屋に比べればそりゃ少ないけど、1人が落とす単価がとても高いので魅力的だっていう話を聞いたことあります。

清水:ちょっと洒落たお店もでき始めて、人もたくさん入ってという流れもあって、私たちなんかは、それこそ合コンで使うとか、職場の飲み会なんかで新しい店にどんどん行ってた覚えがありますね。

後藤:キヤノとか、メルカドとかね。

清水:そうそうそう、その辺ですね。

石黒:そうだね、ちょっとおしゃれなね。

清水:僕が市役所入った頃にはそんなお店なかったですし、いわゆるチェーンの居酒屋もそんななかったですね、村さ来があったくらい。

石黒:さっきの人口推移を考えると、いわゆる我々世代がお金を落とす世代になってきたってこともあるかもしれませんね。

清水:なるほどね、それはあったかもしれませんね。

豊田の変化 地の人と外から来た人の交わり
清水:あんまり豊田市駅前の思い出ばかりでもアレなので(笑)、後藤さん、ずっと取材で豊田の街に移り変わり、駅前だけじゃなくて、豊田全体の街の変化とか、振り返ってみてどうですか?いわゆるイベントなんかは昔はそんなになかったと思いますが、地域振興とか言われ出したのもその頃からだと思うんですけど、ここ20年30年の、豊田を見てきた中で感じる変化ってありますか。

後藤:僕が最初に会社に入った頃に、豊田は文化不毛の地だってやたら言われましたね。

石黒:今だに言われますね。

後藤:どういう基準で文化不毛の地って言うのかよくわからないんですが、当時は加藤市長で、緑の都市で、文化ゾーン構想もあって。舞台・演劇の方で岡田さんと石場さんがいて、伝統的なお祭りなんかもありましたし、日本舞踊も盛んだったり、クラシックもセンチュリーだとかもあって、、、色々文化もあったと思うけど、トヨタ自動車があるのに、その割にってことなのか、、、ちょっとわからないところがあったんですけどね。

石黒:やっぱり昔のイメージで言えば、特に岡崎とか碧海の人からみれば豊田は田舎で、嫁に出したくないってね(笑)、そんなことも言われたっていいますから、だから文化的にも遅れているというイメージ、それは戦中戦前の話かもしれないけども、それを引きずってたところはあるのかもしれませんね。

清水:東海道沿線に比べると山間部で、かいこさん、蚕養をやってる町っていう印象ですよね、当時は。

後藤:まあ、何もないからトヨタ自動車が進出してきたわけですからね。

清水:僕は豊田でも田舎なのでそんなに実感はなかったんですけど、学校でも全国から来てるっていう印象はありましたか?

後藤:ありましたね、お父さんの出身地を聞くと、九州とか、山陰とか、東北とか、この辺りでは珍しい苗字もいましたね。

石黒:
それは、僕も中学校の時はやっぱり感じましたね。自分もそうだったんでね、親は九州だったので。もうクラスメイトのほとんどがそうでしたよ、半分どころじゃないと思う。だから、いつの頃からか自分たちのことを二世って言って、要するに豊田生まれ豊田育ちなんだけど、親は違うという。そういうのは、ここにいると当たり前なんだけども、実はこの辺りならではだったというのは、中学の時はまだ気づいてない。

清水:ちょっとまとめると、高度成長期からバブル崩壊まであって、文化不毛の地って言われたりしてたけど、2000年あたりを境に、また豊田市駅周辺にお店も増えて人も増えてきてとか、石黒さんの演劇活動とか、私も映画に関する活動とかをやってきてるんですが、僕たちの上の世代が文化に関する活動をどうやっていたのかがあまり見えてなくて、繋がりみたいなのもあんまりなくて、ちょっと分断があると言うか、、、。

石黒:ちょうどこの前の土曜日に、そういった文化関係者の集まりがあって、それは旧の文化協会のメンバーが中心だったんですが、さっきの文化不毛の地の話でいくと、あの世代は、かなり幅広く、いろんな分野で文化活動をしてて、今でもそれはしてるわけです。文化協会だった頃は、むしろ今よりも活発にやってたんじゃないかと思うくらいなんですよね。ただ、あの人たちは豊田にずっといた人たちで、いわゆる我々のようなよそから来た層は入ってなかったんじゃないかと思うんですね、ちゃんと調べたわけではないですけど。

後藤:それは、そうかもしれませんね。

石黒:だから、我々の世代でようやく、まあ我々は豊田で生まれ育ってますので、もともとは地元人でない人たちが豊田の文化も担い始めた。ずっといる人とそうじゃない人たちの境目があるのかもって思うんです。
 僕が、市民創作劇場に関わったのが、1992年3年ぐらいから10年間くらいだったんですが、その時僕も20代でしたけど、集まってくるメンバーも僕と同世代、10代20代が多くて、多い時は70人80人いましたが、その中にね、結構な割合で九州だ北海道が鳥取だって子がいましたからね。それも、僕なんかは親は九州だけど自分は豊田育ちでしたが、同世代でも最近豊田に来たって人もいたし、親の代からずっと豊田って人もいて、そういった3種類の人が混じって一つのものを一緒に作り始めた世代なのかもしれないですね。

清水:うちの親を例に取ると、うちの親父も仕事以外でいろいろやってましたけど、コミュニティ会議ができた頃で、コミュニティ会議をどうやっていくんだとか、地区でソフトボール大会やろうとか、そういうことをしてました。だから当時はかなり地縁的なつながりでの活動が多かったイメージですけど、我々の世代になるとそういう地縁的なものから外れてきた世代なのかなとも思います。

後藤:文化分野ではそういう融合があったと思うんですが、でも、政治とか経済、経営者とか見てると、やっぱり根っからの地の人が多いんですよね。例えば、商工会議所に入ってる人とか、二代目も多いし、だから人口割合からすれば、全体としてはよそから来た人の方が多いんですが、中核を握っている、いわゆる経済界のボス的な人って地元の人が多いんですね。

石黒:外から来た人のほとんどが製造業だったので、ここで起業するとか、何かお店を出すっていう人、そういう発想そのものがなかったかもしれませんね、最近は増えてきてると思いますが。

後藤:そうですね、増えてますね。それで、起業してる人見るとね、やんちゃって人が多いですね(笑)。どちらかというと学歴があってという人は、自分の先を見ちゃうので、なかなかトライしないんですけど、やんちゃな人は、まずやってみるっていう人が多い感じがしますね。

清水:この前テレビ番組で観たんですが、豊田に限ったことではないんですが、高度成長期と今だと自営業者は半減してるんだそうです、高度成長期まではサラリーマンと自営業って半々くらいだったのが、現在では70、80%がサラリーマンになってる。これは、いわゆる町の○○屋さん、八百屋とか時計屋とかそういう個人店がどんどんなくなってるからなんですね。地方都市にとってそれがいいことなのか悪いことなのかわからないですが、、、。

石黒:だけどそうは言いつつね、最近の話だけど、女性、主婦の人のプチ起業が盛んだって聞くし、フェアトレードの店があったり、そういうソーシャルビジネス、そういった系統のものも出てき始めてる。夢農人、若手の農業の人達がいろんなチャレンジをしたり、ここ5年ぐらいの話ですけど、新しい流れもありますよね。

後藤:合併した町村の方でも、社会的起業する人が出てきてますね。

石黒:そうそう、それこそ僕たちが子供の頃には想像もしなかったような形の職業というか、生き方というのが芽生えてきてますね。

清水:町村合併も一つのキーになってる気もしますね。豊田とはまた違った文化を持っているところもありますし、個人で仕事されてたって人が多い土地もありますからね。
 ここ5年10年でみれば、文化不毛の地っていうイメージはもうないのかもしれませんね。

石黒:そうだと思いますね。まあ、文化不毛の地ってそもそもなんなんだとも思いますけど。

後藤:製造業が中心で、労働者の街というのと文化不毛っていうのがリンクしてたように思いますね。

石黒:イメージとしてね。

豊田の今
清水:これまでの話から、これからの話に移っていきたいんですが、ここ最近の変化からこれからを見据えてみてどうでしょうか。

後藤:やっぱり場があると、やる気がある人は、主体的に継続してやっていくなぁと感じてますね。例えば公共空間を使ったとよたあそべるプロジェクトでも、そこで音楽ライブをやっていると、いいアーティストがいるよって、そういう会話が生まれるんですよね。人材発掘にも繋がりますし、いい流れで、豊田が今動いてるんじゃないかなっていう思いますね。

石黒:やっぱりその大きな起爆剤は橋の下世界音楽祭だったという気がしてるんですが、、、。

後藤:それは感じますね、豊田発でやるっていう、受身じゃなくて、自らでやっていって、輪が広がっていますからね。

石黒:そこからさらに、コンテンツニシマチみたいな、そういう新しい試みもしていくっていうところが、今までやれなかったと言ったらいけないんだろうね、やらなかったことをやっていってる。僕らもちょっと反省するとこもあるんだけど。

後藤:そういう意味で言うと永山さんもやんちゃですからね。そのパワーというか、既成概念にとらわれずに一歩踏み出すという力がありますね。

石黒:行政もしくは地域も、支援とまで言っていいかわからないけど、認め始めたというか。正直ね、昔はちょっとああいうことをやると、抑えようとする力ばかりだったのが、最近は応援してるかなって。

後藤:そうですね、実際、永山さん自身も10年前に駅前で音楽をやってると警察が来てやめろって言われてたけど、今は逆にウェルカムだと。駅前の賑わい作りということもあって行政等も大分応援するようになってきてる。

清水:行政、市役所はどうですか?変わってきている実感はありますか?世代が変わってきて、市民に近づいている部分と、逆にある意味固くなっている部分もあると思うんですが、コンプライアンスの問題もあって。私が市役所入った頃は、まだ“エイ、ヤー”でやっちゃうことがまだ通用してた時代だったんですが、そういうのが許されなくなってきてる面もある。後藤さんは長年取材されてて、行政の変化って感じますか?

後藤:そうですね、、、1つ感じるのは、現場に行く人が減ってるような気がしますね。組織も大きくなって、プロジェクトも大きくなって、アウトソーイングも増えて、実態をどこまで把握した上でやっているのか?と思うところはありますね。ただ、みなさんすごく遅くまで仕事されてて、細分化されて、大変なのはすごくわかるんですけどね。だから、職員の人も、面白さ、仕事で得られる面白さが減ってきてるんじゃないかな、と思うこともあります。

清水:僕が市役所に入った理由は、5時から遊べるからでしたもん。

石黒:いい意味での余裕というか、遊びの部分がないと、色々足で見て回るというのも難しくなってくるよね。その辺をなるべく無駄な時間として、今どんどん削っていくけど、結果的にはそれがね、つまんなくなっている原因でもあるという気はしますね。

後藤:ずっと遅くまで電気ついてますもんね。

清水:そうですね~、電通問題ですね。

石黒:それこそ、役所の仕事だけじゃなくて、日本全体の仕事の仕方がそういうふうになってきてるような気がしますけどね。

清水:まあ、そんな中からもあそべるとよたとか、その他にも面白い事業も出てきていると思います。

略 ※豊田の岡崎の比較の話をしていますが省略 詳しくは映像45分頃~を参照

後藤:あと民間で、結構豊田市駅周辺の飲食店とかカフェでライブができるお店がここ2~3年で増えてきたなと。マスターが好きで、人脈でアーティストを呼んできてライブやったりして、結構面白いですね。

石黒:楽風とかね。じょあんじょあんで竹内さんが呼んできてたりね。

清水:より成熟感のある動きが出てきてますね。

石黒:いわゆるライブハウスとか、小劇場がないのが豊田っていうイメージだったけど、それ専門ではないけれど、それを兼ねた空間はずいぶん出来始めてるという気がしますね。演劇アカデミーの8期生で作った劇団が、今度柿本町にあるレストランで芝居をやるようで、そういうこれまでになり動きも出てきてますね。

後藤:そういう情報をまとめて発信するのか、、、

清水:そうなんです、それが<TAG>の目的です。

後藤:豊田で、そういうコンサートの情報なんかが、一括でワンストップで得られるメディアってないですもんね。

清水:<TAG>リニューアルして半年ですけれど、Facebookを結構頑張って見てて、Facebookに情報がいっぱい転がってるんですけども、それをなかなかまとめて見れないんで。その辺もやっていけるといいかなって思ってますけどね。

後藤:この前、楽風のマスターともそんな話しをしてて、何とかそういう情報を一括して発信してる、そこを見れば探せるものがあるといいねって話をしました。

石黒:情報はそれぞれでは発信してるんですが、個々になってしまっているので、それをまとめるものがあるとね。

清水:世界の情勢も、グローバリゼーションと自国主義のせめぎ合いみたいなところもあって、トランプがどうなるかわかりませんけど、お店が全部イオンになっちゃあなぁというかね、私もイオンで買い物するので、イオンも必要ですが、同時に個人店も大切で、日本全国同じものしか売ってないって本当にいいの?って思いますし、バランスをどう取っていくかだと思います。
 だから、全国の有名なお芝居を、名古屋やそれこそ東京まで観に行くこともあれば、地元の小劇場的な芝居もふらっと観に行くっていうバランスを考えていく時代になってきたって気はしますけどね。

新聞記者の目からみた豊田のこれから
石黒:今更なんですけど、後藤さんはなんで新聞記者になったんですか?

後藤:僕が大学生ぐらいの時に、ちょうど消費税が導入されて、社会党が土井たか子が党首になって、政界再編とか社会が動いてて、そういうところに携わりたいということはありました。もともと豊田が嫌で上京したんです、こんな田舎は嫌だって。でも、離れてみて、初めてよさを感じた部分もあって。

石黒:それは新三河タイムスに入るために帰ってきたんですか?

後藤:そうです、はじめは帰ってくるつもりはなかったんですが、全国紙の入社試験も受けてたんですがダメで、地元にも新聞社あることは知っていたので、それで受けて帰ってきました。
 東京の編集プロダクションとかも考えたんですが、生活が悲惨でしたからね、家賃払って飯食ったら終わりみたいな、それはちょっとなぁって思って。

清水:私も大学は東京だったんですが、同じです、学生時代の仕送りとバイトで手元に残るお金と、仕送りがなくなって給料で手元に残るお金が変わらないって気づいて帰ろうって思いました。

石黒:確かに、今考えると、あの頃、時代の潮目が変わった時だったと思うんだけども、そこから新聞記者でずっとやってきてて、今のこの時はどうですか?それは日本全体として、豊田として両方あると思いますけど。

後藤:そうですね、、、あんまり面白くはない、ってことはないですね。でも、安定はしてるけど、多様性がちょっと失われてきてる気もしますね、文化の面で言えば、お二人が関わっている演劇だとか、映画だとか盛り上がってきてると思うけど、全体的には何か単一的な感じはしなくもないと思う。
 これだけ人口が増えて、都市として考えると、もっと何か色々あってもいいかなぁって、そんな感じがしますね。

清水:国というレベルでどうにかしようっていうのはもう限界かなっていう感じはありますよね。もう悪くなってくしかないだろう、財政的にも近い将来破綻がやってくるんじゃないかとか。そんな中で、どう勝ち逃げするかみたいな、それは個人ではなくて、この街だけ一緒の泥船には乗らないようにって準備をしておかないとと思うというか。

石黒:安倍政権になってね、いまだに経済経済って言ってるじゃないですか。本当は震災の後に変わるべきだったんだけど、人口もこれからどんどん減っていく中で、明らかにライフスタイルというか、豊かさの手法を変えていかなければいけないのに、従来どおり経済経済ってなってしまうというね。

清水:国会ってすごく遠くて、どうこうできる感じがしないんですけど、豊田市政とか豊田市議会なら、もっとコミットして、豊田市議会なら動かせるかもって思うことも大切だと。

石黒:やっぱり自分の生活と照らし合わせてね、人間って行動するわけだから、そこをまず見つめ直すっていうところでしょうね。

清水:だからこそ、地域新聞って重要度が大きいですよね。

石黒:うん、すごく大きいと思う。

後藤:今の太田市長は、まあずっと市役所出身者の市長が続いているという批判もありますけれど、いろいろ柔軟にやられているという印象はありますね。

清水:太田市長は、私が市役所に入った時の隣の係の係長だったんですが、本当は市長をやるタイプではないですよね、学者肌というか、いわゆる昔ながらの政治家というタイプではない。でもその分、私たち側の気持ちも理解してくれてる感じもあると言うか。

石黒:ぐうーっと1つのことを深く行くよりも、いろんなことに目配せしてる印象ですね。

清水:新三河タイムスはこれからも重要な地域メディアの一つだと思うんで、後藤さん個人もFacebookでいろいろ発信されてて、それも続けていって欲しいです。
 最後に後藤さんから、これからの豊田でもいいですし、これからのご自身のことでもいいんですが、締めていただければと。

後藤:先ほども言いましたけど、豊田市駅周辺が、僕が高校3年生の時にそごうができて、北地区の再開発がまもなく終わって、一区切りだと思うんです。ハード面では整いますけど、魂を入れていかなきゃいけないですし、周辺に大規模施設ができていく中で、いかに豊田独自のものを出していけるか。

清水:あと駅の周りももうちょっと変わるって話ですけど、ラグビーのワールドカップがあって、東京五輪があってってで、大きな区切りが来るんだろうなって気がしますね。

石黒:観光という面ではどうなんですか、豊田は?

後藤:観光を業としてやっていくのは、なかなか難しいんじゃないかなぁ、新しい観光協会ができますけど、日本の中でも、観光業として年間を通じらやっていけている地域は限られてますよね。京都、東京、大阪くらいかと。今のまちさと未来塾なんかも面白い試みですけど、あれを、業としてはなかなか難しい。市民の余暇活動とか、リフレッシュの場として、産業都市だけじゃつまらないので、それぞれ風土とか歴史を生かして、残って欲しいというか。

石黒:そうすると、駅前の再開発も外からの人に向けてというよりも、この40万人の人口に向けてーまあ減っていくかもしれないけど、その40万人の人口の中で、まちづくりを考えていかないといけないっていうことなんですかね。

後藤:それで面白いと思えば、それを見て、他から人も来ると思う。そこの地域の人がその地域を楽しまないで、他から呼ぶっていうのはなかなか虫のいい話なので、そういう意味では、自分たちで盛り上げて、楽しんで、なんか豊田の人楽しんでるよ、みたいなことが波及効果で広がっていくと面白いなと思いますね。

石黒:クルマの街として歩んできて、そこはこれからもついてくると思うので、クルマとか交通のモデル都市としての面は世界の人が見に来る部分だとは思いますしね。

清水:それこそトヨタ自動車は、日本という国がなくなってもどうやって続けていくかを考えているでしょうし、そういう精神というか、気持ちは、トヨタ自動車のアプローチと同じでなくても、持ってなくてはいけないと思いますね。

後藤:豊田って、バチカンみたいに、他の自治体とはまったく状況が違うというか。

清水:そうなんですよね、いわゆる産業も人も過疎化が進む地方都市というのではないですね。

後藤:あれだけたくさんの人がいるので、もうちょっと地域に関わるというか、、、。

石黒:うん、実験都市であってもいいと思いますね、新しい交通システムとかだけじゃなくて、文化も含めて、いろんな実験的なことをやれてるいる、それがよそからみると、新しいこと未来への先駆けでやっていることに興味を持って来てくれるという風な、そういうまちづくりができるといいなと思いますね。

清水:この前ここにコイケヤクリエイトの西村さんをお呼びして話を伺った時に、あそべるとよたとかまちさと未来塾とかのサイトやフェイスブックページの運営もされてて、あとフリーペーパーの耕Lifeもですね、情報を発信されている中で、いわゆるフォロワーが1,000人、リーチが10,000人くらいあると実際に動いている実感がするということを聞いて、耕Lifeの発行部数も今15,000部だそうですが、具体的にそれくらいの単位の数字が見えてきていると。僕たち1万人が動くってこれまでまったく想定できてなかったですけど、SNSを使うと、10,000人にとりあえず情報が届いくというのは不可能ではなくなってきてると。

最後も雑談で
清水:同世代での昔話は楽しいですね~。それに、後藤さんと私は東京で同じ大学に通ってたんですよね、学部が違うんで全然知らなかったですけど。サークルも私はバンドサークルでしたが、後藤さんは、、、。

後藤:いわゆるお遊びサークルで、テニスとかスキーとかやってました(笑)。なんか不思議な感覚ですよね、そういう2人がここで話しているという。

清水:そういうのもフェイスブックで知ったんですよね。

後藤:東京で演劇で頑張っている小林至君を取材した時に、清水さん知ってるってなって。

清水:そうそう、そうなんですよ、高校の時の水泳部の後輩で。

後藤:彼の話は面白かったですね。

清水:小林君は、早稲田で演劇部に入って、卒業できたのかな?

後藤:内緒の話、卒業できなかったって言ってました。

清水:それこそ、1年生の時にもう4年では卒業できないことが決まってたって言ってましたからね。

石黒:早稲田の演劇って典型的なパターンですね。

後藤:30代までは、バリバリの演劇最前線でやりたいって言ってて、今はワークショップとか、子どもを対象としたものも、東京近郊の自治体とも連携してという事業もやってるそうです。

清水:いずれ豊田に帰ってくることがあったら、何か一緒にやりたいですよね。

後藤:豊田で何かやりたいって話もしてました。

清水:5年10年経ったら、また振り返って豊田の5年10年の話をするのも、いいかもしれませんね。
今日はどうもありがとうございました。

後藤:ありがとうございました。

ゲストプロフィール
後藤真一(ごとうしんいち)
新聞記者、新三河タイムス編集長。豊田市出身。在住。高校卒業後東京の大学に進学、卒業後帰郷し、新三河タイムスに入社。以後、豊田市内の様々なイベントや催し、会議等に参加し、Facebook等で紹介、ふっとワークの軽さと顔の広さには定評がある。
新三河タイムスサイト http://www.shinmikawa.co.jp/

ホストプロフィール
石黒秀和(いしぐろひでかず)
 1989年に倉本聰氏の私塾・富良野塾にシナリオライター志望として入塾。卒塾後、カナダアルバータ州バンフに滞在し、帰国後、富良野塾の舞台スタッフやフリーのシナリオライターとして活動。1993年より9年間、豊田市民創作劇場の作・演出を担当する。
 2003年、2006年には国内最大級の野外劇「とよた市民野外劇」の作・演出を担当。その後、人材育成の必要性を実感し、舞台芸術人材育成事業「とよた演劇アカデミー」(現在はとよた演劇ファクトリー)を発案、実行委員として運営に携わり、2011年から2015年まで短編演劇バトルT-1を主催する。
 2012年からはTOCを主宰して市民公募のキャストによる群読劇を豊田市美術館などで上演。2017年からは、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員長として様々なアートプログラムの企画・運営に従事し、同年、とよた演劇協会を設立。会長に就任し、2020年、とよた劇場元気プロジェクトを実施する。
 その他、演劇ワークショップの講師や人形劇団への脚本提供・演出、ラジオドラマ、自主短編映画製作など活動の幅は多様。これまでの作・演出作品は70本以上。1997年からは公益財団法人あすてのスタッフとして社会貢献事業の推進にも従事。豊田市文化芸術振興委員ほか就任中。平成8年度豊田文化奨励賞受賞。平成12年とよしん育英財団助成。平成27年愛銀文化助成。日本劇作家協会会員。

清水雅人(しみずまさと)
 2000年頃より自主映画製作を始め、周辺の映画製作団体を統合してM.I.F(ミフ Mikawa Independet Movie Factory)を設立(2016年解散)。監督作「公務員探偵ホーリー2」「箱」などで国内の映画賞を多数受賞。また、全国の自主制作映画を上映する小坂本町一丁目映画祭を開催(2002~2015年に13回)。コミュニティFMにてラジオ番組パーソナリティ、CATVにて番組制作なども行う。
 2012年、サラリーマンを退職/独立し豊田星プロを起業。豊田ご当地アイドルStar☆T(すたーと)プロデユースをはじめ、映像制作、イベント企画などを行う。地元の音楽アーティストとの連携を深め、2017年より豊田市駅前GAZAビル南広場にて豊田市民音楽祭との共催による定期ライブToyota Citizen Music Park~豊田市民音楽広場~を開催。2018年2019年には夏フェス版として☆フェスを同会場にて開催、2,000人を動員。
 2016年、豊田では初の市内全域を舞台にした劇場公開作「星めぐりの町」(監督/黒土三男 主演/小林稔侍 2017年全国公開)を支援する団体 映画「星めぐりの町」を実現する会を設立し、制作・フィルムコミッションをサポート。2020年、団体名を「映画街人とよた」に改称し、2021年全国公開映画「僕と彼女とラリーと」支援ほか、豊田市における継続的な映画映像文化振興事業を行う。
 2017年より、とよた市民アートプロジェクト推進協議会委員就任し(2020年度終了)、あいちトリエンナーレ関連事業の支援やとよたアートプログラム支援を行う。


0 件のコメント:

コメントを投稿